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高野紙編

▼和紙は現在、工芸用や趣味用以外でまず目にする機会はありません。管理人がいまこれを書いている居室を見渡しても、一般製品としての和紙は一枚もなく、僅かに美術関係の人から毎年送られてくる手漉き和紙の年賀状が保管されているのみです。
▼昭和中期頃まで、紀ノ川流域の特定場所で手漉き和紙が細々と製造されていたことは、国鉄和歌山線沿線フリークであればご存知と思います。近年、手漉き和紙は町おこしの一環として注目されるようになっており、国鉄和歌山線沿線のトピックとしてややメジャーになりつつあるので、ここでは比較的冷静に紀ノ川流域の手漉き和紙製造を学びたいと思います。


1.和紙概論

(1)和紙のざっくりした発達史
▼和紙以前に、紙は応神天皇の御代に中国からもたらされたものが存在したようです。その後、推古天皇の時代に高麗の曇徴という僧が紙を製造する技術を伝えたといわれ、これが一応和紙の起源とされています(和紙と言っておきながらも大陸の製紙技術です)。この時期の和紙は布などを原料としたもので、色がやや黒く(≒漂白されていない)、清浄を好む日本人には馴染まなかったようです。そのため、楮(こうぞ)の皮をむいて砕き、灰のアクを混ぜて煮込み、糊を入れるなどした純白の紙を製造したのが聖徳太子とされています(聖徳太子が紙を作るわけがないので他の人の業績でしょう)。
▼奈良期には楮の技術はあまり浸透せず、による和紙が製造されていたらしく、正倉院宝物の中にも麻による和紙が沢山含まれています。また、奈良期には写経が広く伝わり、和紙の需要が著しく増大したので、この時代にはもう既に和紙製造の技術は定着していたと考えられます。時代が下って平安期になると、やんごとなき身分にある京都の女流作家がエロい文学作品を書くのに彩色紙や加工紙を使っているので(この時代の文様のある紙を唐紙という)、この時代に既に和紙の多様化が進んでいたと考えられます。その後鎌倉、室町、戦国と、戦乱が中心の時代になります。戦乱は概ね文化を停滞させるらしく、この時期和紙に関して目立った革新はみられません。
▼江戸期に入ると、和紙が最も華やかな時代を迎えます。原料はそれまでの楮だけでなく雁皮(がんぴ)三椏(みつまた)も使われるようになり、どこの藩でも教養をつけることや書籍や絵図を発行することが奨励されたことから和紙の需要が激増します。和紙が広く実用化され、かつその使用が定着したのは文化年間(1804-1818)から文政年間(1818-1831)にかけてといわれており、さきの時代に比べて華美なものではなく、何にでも使うことのできる汎用紙(≒奉書紙)が求められたようです。また、物を記録する、描くための紙だけでなく、障子紙や襖紙などの需要も増加したようです。この時期定着した主な生産地としては、杉原紙(兵庫)、美濃紙(岐阜)、細川紙(埼玉)、清帳紙(高知)、越前和紙(福井)などがあげられます。
▼明治期に入ると、新紙幣に越前和紙が採用されますが、不換紙幣が大衆に馴染まなかったことや和紙が精密な印刷に向いておらず大量の偽札が出回ったことにより数年で不採用の憂き目に遭います。越前和紙を製造していた越前五箇村の職人たちは、この教訓から原料である三椏の品質にこだわるようになったり、煮熟時(製法は後述)にソーダ灰、漂白時に晒粉などの化学薬品を採用するなど品質改良に取り組みます。その後も、1879(明治12)年には静岡県の製紙家が苛性ソーダを初めて用いたほか、1883(明治16)年には高知県の中内丈太郎が藁半紙の製造に苛性ソーダを採用しています。しかし明治期以降、品質改良や技術改良に精力的に取り組んだ産地はあまりなく、保守的な製造方法を踏襲し続けた産地は洋紙の大量生産や価格競争の波に勝つことができず、大正期以降、加速度的に淘汰されていくことになります。ちなみに、本ブログ他のページでもとりあげているように、和紙製造業界でも粗製乱造が問題視され、各産地で同業組合が結成されています。

(2)和紙製造に必要な条件及びその製造方法
▼現在の和紙製造はかなりの部分が機械化されていますが、昭和中期頃までは自動化することが技術的に難しく、そのほとんどが家内手工業によるものでした。この自動化や機械化という要素を取り除いて原始的な和紙製造に立ち戻ると、和紙はどこでも製造できるわけではなく、次の条件を満たさない限りは製造することができませんでした。すなわち、和紙は山奥でなければ製造することができないという条件です。なぜか。それは以下の諸点によるものです。

■気温が低くなければならない
・冬場もしくは低温でなければ一部の工程を作業できない。
■新鮮な水がなければならない
・きれいな水がなければ一部の工程を作業できない。
・下流であれば土砂や不純物が混じってしまう。
■原料のほとんどが山間部で製造されている
・原料のうち、楮と三椏は平地では育たない(特に傾斜地での栽培が好ましい)。
・ちなみに、雁皮は栽培不可能である(自生したものを用いる)。
■近世までは製法が秘匿されていた
・人里離れたところ、すなわち山間部が最適である。

▼これらの条件を満たす土地は山奥しかなく、現に日本各地の和紙生産地はほぼ全てが山間部です。

2.和歌山県における手漉き和紙製造

(1)和歌山県における手漉き和紙ブランド
▼和歌山県という大きな枠から手漉き和紙をみると、以下のような生産地があげられます。また、これらの各産地はその近傍を流れる河川から分類することも可能です。

■高野(こうや)紙(現伊都郡九度山町、同高野町) … 紀ノ川水系
■神野(こうの)紙(現海草郡紀美野町) … 貴志川水系
■保田(やすだ)紙(現有田郡有田川町) … 有田川水系
■藤井紙(現御坊市) … 日高川水系
■山路(さんじ)紙(現田辺市龍神) … 日高川水系
■熊野半紙(音無紙;現田辺市本宮町) … 熊野川水系

▼これらの手漉き和紙ブランドのうち、高野紙はさておき(後で嫌になるほど取り上げます)、神野紙、保田紙、熊野半紙の概要をそれぞれ整理しておきます(加藤 1959;和歌山県 1934;和歌山県史編さん委員会編 1990)

■神野紙
・貴志川上流の現海草郡紀美野町下神野、志賀野付近で製造されていた手漉き和紙。
・由来は不明であるが、少なくとも江戸期には製造されていた。
・但し、製造戸数は非常に少なく、戦前は10戸前後にとどまっていたと考えられる。
・基本的には農閑期の作間稼ぎのための生産であった。
・高野紙の影響が強く、高野紙の技術が伝播したとみられる。
・色が白く滑らかで、少し粘り気がある。
・上品・下品の品質等級があり、上品は帳簿、下品は黒江椀(現海南市の椀)の袋として用いられた。
・生産地の位置関係は下図を参照。

■保田紙
・1600年代から有田郡八幡村の山保田(現有田郡有田川町)で生産されていた。
・鎌倉時代から紙の生産があったが、その後長期間にわたって製造の中断があったことから、以下の伝承が保田紙の起源として知られている。
・万治年間(1658-1661)に奉行の遠藤兵左衛(佐兵衛)が紀州藩主徳川頼宣の命を受け、山保田の庄屋である笠松佐太夫とともに奈良吉野郡の紙業を修得すべく密行するも土地の人びとは教えてくれず、おまんという工女を山保田に嫁がせて半紙製造の端緒を得た。次いで、お今お竹おますも同様に嫁いできて大蔵、遠井、下湯川(それぞれ現地の地名)に配置され製法の指導にあたった。
・上記の伝承を骨格として、1658(万治元)年生産開始説、1659(万治2)年生産開始説、1665(寛文5)年生産開始説がある。
・基本的には農閑期の作間稼ぎのための生産であった。
・原料は楮で、主たる用途は傘紙、包装紙である。
・製造当初は鼻紙として用いられ、1727(享保12)年に藩の御仕入方商品となり、以降和歌山城下や江戸に送られたが、藩の保護が弱く生産家は決して裕福ではなかったとされる。
・海南市域の傘用紙として使われたが、海南傘の著しい減少に伴い生産がフェイドアウトした。

■熊野半紙(音無紙)
・1100年代から東牟婁郡敷屋村(現田辺市本宮町・新宮市熊野川町)の小津河、高山(それぞれ現地の地名)で生産されていた。
・最初に始めたのは日向の紙職人で、のちに土佐、美濃の紙職人が紙を漉いており、当時は十津川紙と称していたが、利益が上がらなかったため長期間中断していた。その後同地の植甚三郎が土佐から女工を雇い入れて再興した。
・原料は楮で、主たる用途は半紙と塵紙。

▼農商務省によると、和歌山県内の手漉き和紙製造者のうち7割は農商業を主業とする副業であるとしています。原料は県内産の楮、雁皮、三椏を用いており(のちに岐阜、静岡からも供給)、石灰と苛性ソーダは大阪から供給していたようです。和歌山県全体としての和紙総生産量のうち4/10は県内に、残り6/10は県外に出荷されており、さらに県外出荷分の4割は清韓向けの輸出品となっています(農商務省 1908)。
▼和紙に関する工場は、各年の『工場通覧』及び『全国製紙工場綜覧』によると南海紙業株式会社(日高郡藤田村(現御坊市);のちの日窒化学工業株式会社)が和紙とマニラ紙を製造していたのみです。ちなみに、和歌山県内の製紙工場は3工場しかなく、あとは南海特殊工業株式会社(海南市日方;後述)と王子製紙株式会社熊野工場(新宮市)で、王子製紙にあっては第二次世界大戦中はコンデンサー用の紙を製造していたようです。

(2)戦前の和歌山県における和紙生産の動向
▼次に、戦前の和歌山県における和紙生産の動向をグラフにしてみました。

①和歌山県における和紙生産額の年次推移
▼1907(明治40)年から1940(昭和15)年までの年次推移です。なお、大正末期から昭和初期にかけてデータが欠損しています。
▼和紙は大量生産には馴染まないにもかかわらず、製紙市場をはじめとする景気の影響を受けやすく、第一次世界大戦中の好況とその後の不況、機械製紙の興隆によって一時期生産額が落ち込んでいます。その後V字回復を遂げますが、これは洋紙製造が戦時統制の対象となって製造額が落ち込んだことによって和紙の需要がにわかに高くなったことによるものです。

②用途別にみた和歌山県における和紙生産額の年次推移
▼1907(明治40)年から1925(大正14)年までの年次推移です。
▼見ての通り、和紙は傘紙としての需要が圧倒的に多いことがわかります。その生産は1919(大正8年)頃にピークを迎え、その後は第一次世界大戦後の不況下で生産額が激減します。なお、和傘の主要産地は海草郡日方町(現海南市)です。

アメリカ向けの大日傘づくり(1936(昭和11)年)。

③和歌山県における和紙製造戸数の年次推移
▼1907(明治40)年から1919(大正14)年までの年次推移です(紀南方面のデータは示していません)。また、伊都と那賀のデータは一部欠損しています。
▼下図には和歌山市と海草郡を含んでいませんが、これは製造戸数が皆無に近い(1戸前後)ためで、言うまでもなく和紙の製造条件を満たす環境が和歌山市と海草郡には極めて少ないことを示しています。
▼伊都は、ほぼ全部が高野紙関係すなわち伊都郡高野町、同九度山町、同河根(かね)村、同学文路(かむろ)村の製造家の数を示しています。また、那賀は、那賀郡下神野村と那賀郡猿川村の製造家の数を示しています。
▼県内の総数としては、1911(明治44)年頃に一時的に増加するものの、その後は微減傾向となります。手漉き和紙製造家にしてみれば、伝統にしたがって紙漉きはするけれども、手漉きによる和紙製造は結局割に合わないと考えていたようです。

④種類別にみた旧那賀郡(≒旧那賀郡下神野村、同猿川村)における和紙生産額の年次推移
▼1911(明治44)年から1924(大正13)年までの年次推移です。なお、1914(大正3)年のデータが欠損しています。
▼ほぼ全部が和傘の傘紙用に製造されていたことがわかります。1916(大正5)年に何があったのかはわかりませんが、これ以降生産は低迷し、1924(大正13)年頃には生産額がほぼゼロとなります。

⑤種類別にみた旧伊都郡(≒高野紙製造者)における和紙生産額の年次推移
▼1911(明治44)年から1925(大正14)年までの年次推移です。なお、1914(大正3)年のデータが欠損しています。
▼那賀郡と同じく、ほとんどが和傘の傘紙用に製造されていたことがわかります。1923(大正12)年の生産額大幅減は大不況によるものですが、那賀郡ではこの年生産額は維持されており、この違いは不明です。

3.高野紙の世界

▼まずは、昭和初期の「雨傘を上手に見分ける方法」など。

雨傘
一、傘を広げる時に骨の一、二本を持って開く人があるが、これは親骨と支骨の連結部を痛める恐れがあり、また後でロクロのみを持たないで支骨にも手をかけて広げる者も、ロクロと支骨の連結部に無理を来たし壊れる心配があるから、傘を広げる時には、はじめキリキリキリと廻して少し開き、後ロクロの間を持って開くと長持ちする。
二、紙は高野紙、美濃紙等があるが、高野紙の方が良く、又厚いものが必ずしも丈夫とは云い得ない。
三、骨はすぼめて見た時、真っ直ぐに通っていて太さが平均しているものが良い。
四、骨の表面の漆は、光沢があってむらのないものが良い。
五、はじきの良し悪しを検べる必要がある。
(大阪府工業奨励館『商品の見分け方(三)』46頁)

(1)高野紙の定義と製造地域
▼高野紙の学術的な定義はなぜか存在しませんが(史学や民俗学では地名にまつわる固有名詞はわざわざ定義しないらしい)、大まかには紀ノ川支流の紀伊丹生川、及び紀伊丹生川支流の古沢(こさわ)川流域の下古沢、中古沢、上古沢、椎出(しいで)、河根(かね)、笠木(以上は全て現伊都郡九度山町)、細川(現伊都郡高野町)で製造されていた手漉き和紙の総称、となります。
▼このように、高野紙を定義するにあたって集落名をあげるのは、高野紙がもともと高野山寺領の下古沢、中古沢、上古沢、笠木、椎出、河根、東郷(ひがしごう)、西郷、東細川、西細川の10集落が講を組織して製造されていたからです(これら10集落を高野紙十郷という)。
▼これら10郷の中で、製造戸数が最も多かったのは下古沢です。製造戸数の推移については、以下のような具合になります。

■1937(昭和12)年 河根15軒(九度山町史編纂委員会 1965)
■1938(昭和13)年 総数93軒(テレビ和歌山 1976)
■1940(昭和15)年 総数93軒(下古沢53、中古沢11、上古沢13、椎出16、河根0)(九度山町史編纂委員会 1965;中川 1941)
■1941(昭和16)年 総数約70軒(三谷 1941)
■1958(昭和33)年 総数22軒(下古沢20、中古沢2、上古沢2、椎出0、河根0、細川0)(加藤 1958)
■1976(昭和51)年 総数1軒(中坊君子氏のみ)(テレビ和歌山 1976)

▼なお、高野紙主産地の位置関係は下図を参照して下さい。

(2)高野紙の特徴・特長
▼高野紙には、以下のような特徴・特長があったといわれています(加藤 1958;九度山町史編纂委員会 1965;三谷 1941)。

■原料が楮100%である
・但し、これは明治初期までで、昭和に入ると原料に木材パルプを混入するようになったと複数の研究者が指摘している(混入割合は
の10%~40%)(加藤 1958;三谷 1941;中川 1941)。
■製造方法が原始的な溜漉きである
・阿波地方、愛媛上川、高知長生村と同じとされる。
・しかし、末期には流し漉きを採用している(高野紙の製造工程は後述)。
■萱(茅)の簀(すのこ)で漉く
・この萱の簀がどのようなものであるかは後述。
■紙に縦の漉き目がある
・これは漉く手順が独特であることによるもの。
■紙質が上等である
・但し、上中下の各ランクがあったとされる(このうち、下品は出荷されなかったらしい)。
■粘り強さ・堅牢さ
・高野紙は基本的に厚紙なので堅牢である。
・水に入れても破れないとされる。
・かつては「厚紙が上等である」及び「薄い紙は軟弱である」という価値観が存在した。
・高野紙製造家は「薄い=繊維が切れて破れやすい」と考えていたとみられる。
■虫に喰われにくい
・これには諸説があり、一致はみていない。
・原料に楮ではなく三椏を使用すると、三椏には多少の毒性があるため、虫が寄り付かないといわれる。

▼文字で書いてもイマイチ具体性に欠けるなあと思っていたところに、高野紙研究の鬼、中川善教が自著にサンプルを添付していました。下写真は、傘紙として製造されていた高野紙です(中川 1941;頁番号なし)。この写真は半紙のようにぺらっぺらに薄く見えますが、そうではなく、実際は管理人のような昭和生まれの人間が初等教育の理科実験で使った石綿のような外観で、かつ、画用紙のように部厚いです。

(3)高野紙の用途
▼高野紙がいつから存在するのかは明らかではありませんが、当初は次第紙(しだいがみ。経文や文書用に使われる上質の厚紙)や奉書紙(ほうしょがみ。行政文書用に使われる上質の厚紙)など、高野山上の寺院政治行政を中心に消費されていたとみられています。また、高野山は金剛峰寺を中心に鎌倉時代頃から「高野版」と呼ばれる書籍を多数出版しており、それらが現存しており、高野紙が大量に使われていたことが分かっています。
▼時代が下るにつれて、各産地からさまざまな和紙が供給されるようになり、高野紙の社会経済的地位・価値が低下すると、製造家はこの厚紙を文書以外の目的に転用しようとします。江戸時代には、和傘の傘紙としての需要が卓越するようになります。傘紙として製造された高野紙は、和傘生産地であった海南市日方、姫路市及び播磨地域、奈良県方面に出荷されていたようです(加藤 1958;小池 1959;三谷 1941)。三谷は、高野十郷で製造された傘紙の8割が海南市、残り2割が播磨、大和地方に出荷されていたと述べています(三谷 1941)。明治以降、高野紙の用途の大部分は傘紙であったと考えられます。この傘紙としての需要は、洋傘とビニールの普及に伴う和傘のフェイドアウトとともに昭和中期には完全に消滅しました。
▼高野紙は、傘紙として生産されると同時に、大判のものを製造して障子紙としても用いられていたようです。厚紙を障子紙として用いるという感覚はなかなか理解し難いですが、破れにくいという意味では実用性があったのかも知れません。そのほか、合羽布団紙衾(かみふすま)。現代でいうシーツが高野紙でできており、中に綿を入れて布団にする)、紙子かみこ。紙製の着物)、焙炉紙ほいろがみ。赤楮(あかそ)で作った紙で虫がつかないので米袋や茶の袋として用いる)、楮粕紙かんがすがみ。楮の粕に藁を混ぜて作った紙で砂糖袋等として用いる)等の製造実績があります。このうち、例の中川善教が自著に添付していた焙炉紙のサンプルが下写真です(中川 1941;頁番号なし)。

▼なお、昭和初期には和歌山県が高野紙製造の奨励のために補助金を支弁し、福岡県八女郡上妻村から製紙職人の田代勇氏を招聘して京花紙きょうかし、きょうはなかみ)の製造にチャレンジしていますが、市場の評価を得る前に誰も製造しなくなったようです。この京花紙は、薄くて強靭という、それまでの厚紙=上質という価値観を覆すものでした。管理人を含む昭和生まれの人間なら誰もが知っている「ちり紙交換」で貰った鼻紙(花紙)がまさにそれで、あるいは、昭和時代の和式便所にほぼ例外なく置いてあった、トイレットペーパーではない長方形の鼻紙(花紙)がまさにそれです。

(4)高野紙の製造形態と生産量
▼製造は言うまでもなく手漉き、そして『紀北の凍豆腐を見直そう編』でさんざん話題にした問屋制家内工業の形態を取っていたといわれています。すなわち、山間部の農民は平時から困窮しており、堺や大阪、和歌山市内の紙問屋から年間の原料費、製造費、生活費等を前借りして商品が出来上がった後に勘定を精算するという仕組みです。そのため、製造家の多くは紙問屋への借金と利子の支払いに追われて、紙問屋から多分に搾取されていたと考えられます。農商務省は、和歌山県の手漉き和紙製造者の収支について、原料7分製造費2分収益1分としています(農商務省:1908)。たしかに、製造コストと労力の割にゲインが余りにも少なすぎます。
▼高野紙十郷の各村には、専業者と農閑期副業者の二者が混在していたようです。また、高野紙の製造工程は後述するとして、その製造工程のほとんどを女性が担っていたといわれています。
▼製造量(枚数)は、初心者と熟練者とでは大きな差が生じるらしく、一日600~800枚程度とされています(三谷 1941)。

(5)高野紙盛衰史
▼高野紙の正確な起源はよく分かっていません。
▼さきに述べたように、高野山開創からはるかに時間を経た鎌倉時代頃から高野版の出版が活発になり、現存する高野版に高野紙がふんだんに使われていたことから、高野紙はもともと高野山上寺院で使う各用紙の需要に対応しており、少なくとも鎌倉時代には高野紙の生産があったことは間違いないとされています。なお、高野紙を使った現存最古の書物は、金剛峯寺の阿闍梨快賢が木版化した弘法大師著『三教指帰(さんごうのしいき)』(1252(建長5)年)という書物です。
▼一方、「弘法大師が高野山麓の村民に製法を教えた」という表現、ないし「紙漉きは弘法大師に教えられた」という地元集落の古老の口述は、高野紙の歴史を取り扱った文献のほぼ全てに登場します。高野紙の研究者としては、高野山開創(816(弘仁7)年)とともに高野紙が勃興したと決めたいけれど、鎌倉時代より前の史資料が皆無であるから実証が困難、といったところでしょうか。
▼小池は、紙のような特定の需要がある生産物がその地に自然発生したとは到底考えられないから、高野山寺院の需要に伴うものであろうと推察しているほか(小池 1959)、中川は弘法大師が815(弘仁6)年に山上で写経を推奨しており、そのため筆、墨、紙の需要が発生し、筆と墨は少量で長期間使用できるが紙は膨大量を要し、この膨大量の紙を都たる京都から運ぶのは不自然であって、高野山の近くに紙の原産地がなければならず、高野山からさほど遠くなく、用水の便のある古沢の土地が適していたのではないかというストーリーを描いています(中川 1941)。
▼このような諸点から、実証性には乏しいけれども、傍証から高野紙の製造開始時期は上代にまで遡ることができるというのが研究者間の概ねの合意となっているようです。
▼さて、鎌倉時代は高野版の出版ラッシュで、高野紙製造は繁忙を極めたと考えられます。中川は、当時の高野紙には椙原すぎはら。上品な紙)と厚紙(下品な紙)という2つの品質のランクがあったと指摘しています(中川 1941)。また、伊都郡の「伊都」が「糸」を示すことからみえるように、もともと、高野紙十郷を含む伊都地方の主要特産物は糸で、山間部には桑がたくさん植えられていたのが、中世以降は他国の蚕業に圧倒され、桑畑が徐々に楮畑となって製糸業から製紙業への転換が進んだと考察する研究者もいます(井村 1958)。なお、井村は現在の「神谷(かみや)」(現伊都郡高野町)という地名について、「紙谷」「紙屋」のように高野紙と関係しているのではないかと推察しています。
▼高野紙の発展は、以上にみたように高野山、弘法大師、高野版というキーワードがセットにされて描かれるのが常識となっていますが、南北朝時代(1333-1392)に吉野朝の忠臣らが隠れて高野紙を再興させたという伝承も存在します(三谷 1941)。この伝承は、鎌倉時代に出版しまくっていた高野版事業がのちに息切れ状態となって出版が低迷し、室町時代に入ると明らかに衰退してしまったことと呼応していると考えられます。
▼江戸時代に入って、特に文化年間(1804-1818)には高野版事業が再興・発展し、高野紙の需要が喚起されたといわれています。その一方で、各地の和紙生産地のうち、特に東日本一帯の和紙が首都たる江戸で使用されるようになったことから、高野紙は次第に書物以外の需要への対応にシフトするようになり、それがさきに述べた傘紙でした。そして江戸末期になると、高野版ですら高野紙を使わなくなり(もともと高野紙は墨付きが悪かったらしい)、高野紙はもっぱら傘紙や障子紙の製造を行うのみになったといわれています。
▼1841(天保12)年には、高野紙十郷のうち、高野山学侶領である8村が製造する高野紙に対して高野山が専売制度を敷いています。これは、村で製造された高野紙を慈尊院(現伊都郡九度山町)の取扱所にいったん集め、指定の問屋に出荷するというものでした。専売制の目的は一応、製造家の保護、高野紙の保護ということになっていますが、実質的には生産、価格統制を行うことによって高野山が上前をハネることを意味したと考えられます。
▼ところで、高野紙十郷による高野紙は、各村の枠を超えた「講」を組織して製造されていたことが分かっています。この講のことを「紙漉き恵比須講」といい、その中身の要点は以下のようなものです(九度山町史編纂委員会 1965;和歌山県史編さん委員会 1990)。

■恵比須祭を開催する
・毎年、正月10日と10月10日の2回、各郷持ち回りで会合を開く。
・このとき、恵比須神(上古沢の厳島神社に掛軸が保存されているらしい)に紙漉きの繁盛を祈る。
・このとき、一郷から村役人が2人ずつ出席する。
・このとき、漉き始めと漉き留めの日を決定する。

■漉き始めと漉き留めの日程について
・漉き始めは、概ね寒の入り前後とする。
・漉き留めは、概ね八十八夜前後とする。
・この日程は、紙漉きを守るためにある(≒抜け駆けを許さない)。

■「定」の回覧
・毎年、以下のよう定めを郷中に回していたとされる(下a)~h)は1865(元治2)年の例)。
・これらの定めは、製品量を調整するとともに粗製、不正な荷造りを戒めるためのものであった。

a)紙漉始の日程
b)紙漉留の日程
c)紙形伸縮並に小数不足ならざること
d)破れ紙を入れ申すまじきこと(≒破れた紙は入れるな)
e)紙、楮両掛商売相成らざること(≒紙と楮の掛け売り、掛け買いはするな)
f)小前山方へ入込み楮買取るまじきこと(≒生産家は直接山に入って楮を買うな(指定の問屋から買え))
g)高野山の楮の価格
h)保田の楮の価格

■その他
・紙漉きの技を他村の者に伝えてはならないという掟が存在した。
→結婚は高野紙十郷内で行われることが多かったとされる。
→高野紙十郷の外に嫁ぐ女性は規約遵守の起請文を書かされたという。
→但し、この掟は実質的に破られ、ダダ洩れであった可能性が大である。
・特に問屋を通さない抜け売り、抜け買いが厳しく禁止された。
・違反者には厳しい制裁が科された。

▼なお、1839(天保10)年に刊行された『紀伊続風土記』には、高野紙十郷には含まれない清水村(現橋本市)、花坂村(現伊都郡高野町)で木漉き紙や半紙の製造が行われていたとの記述が存在するようです(井村 1958)。
▼明治時代に入って、高野紙の商品としての意義が失われると、製造家の数も減少を辿りました。さらに昭和年間に入ると、高野紙は物価統制のあおりを受けて公定価格制の対象となり、かなり安価な設定とされたがゆえに製造家や組合が「安すぎる」として行政にクレームを入れたという残念なエピソードが残されています(中川 1941)。そして、昭和中期には高野紙製造は完全なフェイドアウトを迎えます。

(6)手漉き和紙製造のフェイドアウト
▼高野紙をはじめとする和歌山県内における手漉き和紙製造は、大正期以降徐々に製造戸数を減らし、現在はほぼ皆無に至っています。主要な要因としては、さきに述べたように割に合わないことや生産効率の悪さ、後継者不足などがあげられますが、その他の要因を以下に整理します(小池 1959;小畑 2012;清水 2017;山下 2017)。

■「統制・依存」から「自由・自立」への変化に対応できなかった
・幕府や寺領に保護されていたギルド的な同業集団が明治期以降の自由市場経済に円滑に適応できなかった。
■手漉きにこだわりすぎた
・機械漉き和紙の製法が発明されるに至り、価格競争面で手漉きに勝ち目はない。
・和紙は洋紙ではなく和紙の中に競合相手を作ってしまった。
■業としての関心に乏しかった
・農閑期の副業として位置づけていたため依存的であった。
・女漉き(女性による紙漉き)に代表されるように、副業としての地位を脱することができなかった。
■養蚕の普及(紀ノ川流域のみ)
・1895(明治28)年頃から副業としての養蚕業が浸透し始め、楮畑が桑畑へと大きく変貌した。
・養蚕は夏場メインなので冬場の紙漉き業と競合しないが、桑栽培は楮栽培と競合する。
■交通機関が発達した
・交通網の発達により他の生産地の廉価な和紙が旧来の地産地消的な市場を侵食した。
・交通網の発達によりストロー現象が生じ、山間部からの離村者や通勤者が激増した。
・高野紙の場合は高野鉄道が高野下駅、紀伊神谷駅まで開通したことによる影響が顕著に出た。
■本業としての商品作物栽培が導入された
・高野紙の場合、古沢谷にはまずみかん栽培が入った後、みかん栽培は気候的に不利なため第二次世界大戦後には柿栽培が入った。
・第二次世界大戦後養蚕が廃れると桑畑が柿畑に取って代わった。
■良き先導者がいるかどうか
・近代に入って、時代の潮流に敏感になってニーズを的確に見抜く先導者がいたかどうかで生産地の盛衰が決まる。
■地域の潜在力によって和紙製造を支えられるかどうか
・ここでいう潜在力とは地域住民による主体的取り組みや地方行政機関の協力のことをいう。
・地域住民や集団がその地域の文化や伝統に基づいて外部の知識、技術、制度などを柔軟に採り入れつつ自律的に(≒自分たちで)和紙製造の文化を創出できるかどうかで生産地の盛衰が決まる。
・現在は、地場産業としての構造がなければ和紙製造は存続することができない。
■貧困により設備改良のための資金を蓄積できなかった
・近代までの山間地に暮らす人びとは皆貧困にあえいでいた。
・紙業を副業として生活をようやく支えることができたが、それ以上の設備投資は無理だった。

▼以上のような要因によって、手漉き和紙は一部特定の需要を満たすだけの商品になりましたが、これを「成り下がった」と理解することは不適切であると考えます。すなわち、手漉きという手工業的要素を多分に含む伝統技術はそもそも大量生産、大量消費の現代には馴染まないのは当たり前です。現に、和歌山県内や紀ノ川流域の各産地で手漉き和紙を体験させてくれる工房の多くはそうした市場とは距離を置き、生産性の呪縛から解き放たれ、工芸品としての自由な飛翔を試みています。個々の工房は食べていけるほどの収入に乏しいことでしょう。しかしながら、手漉き技術を継承したい人や好きな人が自由にそれをやるという活動の試みが、世知辛い、生きづらい現代に「こういう世界もあるんだよ」というオルタナティブを具現してくれているような気がします。

4.場所と暇のある人必見! 高野紙の製造工程とその留意点

▼次に、高野紙の作り方と留意点を整理します(後藤 1964;加藤 1958;九度山町史編纂委員会 1965;中川 1941;テレビ和歌山 1976)。
▼なお、逐次挿入している図は、全て中川の著書から引用したもの(頁番号なし)で、管理人が加工修正したものです。

■原料について
・和紙の原料には雁皮(がんぴ)楮(こうぞ)三椏(みつまた)がある。
→高野紙は専ら楮を用いる。
→高野紙では楮のことを「カゴ」または「カンゴ」と呼ぶ(楮の古訓カゾの転訛か)。
・楮にはさまざまな種類がある。
→高野紙はもともと山楮(やまそ)、岡楮(おかそ)、黒楮(くろそ)を用いた。
→最末期の高野紙は真楮(まそ)を使っていた。
→真楮は、繊維の収量は少ないが質は良好で、製紙には最も優れた。

■楮を調達する
・楮の多くは、不動谷川一帯の傾斜地に自生しているものを採取していた。
・不足分は、日高郡、長谷毛原、土佐地方、山陰地方から調達した。
・有田郡保田村から移植したものを保田楮(やすだそ)と呼ぶ。

■楮を栽培する
・楮栽培は、まず苗木を採ることから始める。
・苗木を採るには、3月頃に楮の根を取って3,4寸に切って植える(「根伏せ」という)。
・苗木を3月頃に楮畑(「カゴ山」という)に植える。
・根伏せをした年は皮が薄いので、2年目以降の楮を製紙原料として採取する。
→よって、根伏せと採取のサイクルを計画的に行う。
・3月頃に発芽した楮は夏の間に6,7尺に伸び、秋に落葉する。

■楮を刈り取る
・秋の農作物収穫が終わった後、または冬のはじめに山から楮を切ってくる。

■刈り取った楮をコナゲる
・刈り取った楮は、まず枝を払い、長短によって大体4通りに揃える。
→枝を切り払い、長さを揃えることを「コナゲる」という。
・コナゲた楮を3尺2~5寸ほどの長さに切り揃え、切り揃えた楮を葛等で固く締め括る。

■楮の束を蒸し、半日ほど置く
・コナゲた楮の束を釜で煮る。
→蒸す目的は、楮を柔らかくして皮を剥がしやすくするため。
・蒸し釜は、通常は六斗釜(口径約2尺3寸)を用いる。
・楮を釜の中に入れ、隙間にも楮を詰め、上から蒸し蓋を被せ、釜に火を入れる。
・蒸すときは、湯気が漏れないように釜の周囲を藁で巻く。
・2時間ほど蒸し、蒸し終わったら蓋を外して水をかける。
→水をかける目的は、渋皮が取れやすくなるから。

■楮の樹皮を剥く
・釜から出した楮を莚の上に下ろし、直ちに皮を剥く。
・剥いた皮は、手で揉んで表皮を取り除く。
・皮を剥きとった後の木は、かつては杖として高野参詣道の茶店等で売られたが、今は薪に使われるのみ。

■剥いた楮の樹皮を干す
・楮を干すのは保存のため。
→楮の刈り取りは初冬に限られるから。
→また、漉くたびに楮を刈り取ってくるのは手間がかかるから。
・3日も干せば十分乾く。
・乾いた楮の皮は、束にして蓄える。
・山で楮を刈り取ってから、皮を剥くまでの工程を「タテカゴ」という。
→「カゴ」は楮の意味だが、「タテ」の意味は不詳。

■剥いた楮の樹皮をサクる
・紙漉きの前に、楮の樹皮をまず水に漬けて柔らかくする。
→下古沢では、古沢川の流れに1時間から半日ほど浸す。
・十分に水を含んで膨らんだ楮の樹皮を小刀等で削り、外皮の部分を取り除く。
→小刀で削ることを「サクる」という。
・サクり終わった楮は白くなっている。
・サクり終わった楮は、さらに古沢川の流れで三度ほど繰り返し洗う。

■サクった表皮を灰と一緒に煮込む
・釜に水を6~7分入れて火をつけ、湯が沸くと灰を入れる。
→煮込む目的は、不純物を除去し、靭性繊維だけを取り出したいから。
→灰を入れる目的は、繊維を砕きやすくするため。
・昔は高野の寺家から炭の灰(土灰)を買い、これを混ぜていた。
→土灰は手数がかかり、アク抜きが難しい上、あまり綺麗に仕上がらない。
→高野で作っている杉箸の割り屑の灰が土灰よりも良いとされる。
・末期には、灰の代わりにソーダ灰を使っていた。
→ソーダ灰は手数が省けて失敗がない上、綺麗に仕上がる。
・さらに、釜の中へ水に浸しておいた楮を入れ、蓋をして1時間から1時間半ほど煮る。
・十分柔らかくなった楮は、釜の上に置いた竹簀に上げ、棒で抑えて強く絞る。
→このとき、付着している塵等も指先で取り除いておく。

■煮た楮を水切りし、棒や槌で叩き潰す
・塵を除いた楮は硬い板(「打ち板」という)の上に乗せて繊維を叩き潰す(20分ほど)。
→叩き潰す目的は、楮の繊維をほぐすため。
・槌は樫の木で作り、丸い所を持って打つが、先端は角である。
・この段階で、洋紙でいうパルプが出来上がる。
・最末期は、モーターで繊維を細かく潰す機械を用いた。
→村の精米所が機械を備え、村中の楮打ちを請け負っていた。
・叩き潰されて綿のようになった楮を桶に入れ、水を加えてかき回す。
→これが紙の基本原料となる。

■砕いた楮の繊維を水槽に入れて水で薄める
・この水槽のことを「フネ」という。
・フネに、砕いた楮と水を入れる。
→割合は、砕いた楮:水=1百目:5~6斗。
・楮と水がよく混ざるように棒でかき回す。
→これを「タテ込む」という。

■トロロを混ぜて攪拌する
・十分かき回したら、さらにトロロを混ぜる。
→トロロを混ぜる目的は、紙漉きの際に適度な粘りを出したいから。
・トロロは根から抽出する。
→これを「ネリ」という。
→トロロは、一昼夜ほど水に漬けて柔らかくし、槌で打ってこれを砕く。
・次に、トロロ(ネリ)を袋に入れ、水を入れた桶の中に漬ける。
・次に、水に漬けておいたトロロ(ネリ)を、楮を入れて水を加えたフネの中に混ぜる。
→トロロ(ネリ)は袋に入れたまま、絞り出すようにして混ぜる。
・フネ内を十分かき回し、楮とトロロ(ネリ)との混ざりを良くする。
・トロロの加減如何によって、漉き上がる紙の品質が上下される。
・トロロ芋が採れるのは冬に限られるので、夏の紙漉きに不足を来たした場合には「のりうつぎ」あるいは「びなんかつら」が代用される。

■簀(すのこ)とカテの準備
・高野紙を漉くには、楮の繊維を掬い上げる簀と「カテ」が必要。
・簀は、萱を編んだ萱簀を使用し、竹簀は使用しない。
・萱の穂の採取を「穂取り」と呼び、秋の彼岸頃に高野山と花園村の間にある辻ノ茶屋付近、立里荒神手前の水ヶ峯付近から2~3年分を採取する。
・この簀を中に挟んで、上下にカテ(上ガテ下ガテ)がある。
→下ガテは、3本のヌキを入れてある。
→下ガテは、水が流れやすいように枠の端が丸くなっている。
→カテは狂いが出ないように上質の檜を使う。
・上ガテ、簀、下ガテと重ねると写真のようになる。これで紙漉きを行う。

■漉き作業
・高野紙の場合、一枚につき漉き作業を3回行う。
・高野紙は凍りつくような冷たい水であればあるほど上質の紙ができるといわれる。
・簀は13枚使う(他の漉場と異なることは簀を多く使うことである)
→一つのフネに対して13枚の簀を使用する。
・まず、上下ガテと簀を挟んだものを両手に持ち、フネの中に入れて楮を掬い入れ、2~3回カテを前後に動かす。
→前後に動かすのは、液体を平均させ、繊維を絡み合わせるため。
→前後に漉くか、前後左右に漉くかによって生産地の特徴が出る。
・次に、さらに掬い入れ、同じ動作を繰り返す。
・次に、これをフネの上に渡した2本の支棒の上に乗せ、水切りをするとともに塵を指で除去した後、立て板に立て掛けてさらに水切りをする。
→水は全部簀の目からフネの中に落ちる。
・次に、2回目の水切りのためにカテを静置しておく間に、前に漉いて立て板に立て掛け、水切りしたものを簀から外して積み重ねた湿紙の上に重ねる。
・次に、もう一度掬い上げる(水切りまで同じ動作を繰り返す)。
・このように、13枚の簀で次々に紙を漉いては、湿紙を簀に付けたまま立て掛け板に立てかけ、最初に漉いたものから紙床しと。重ねられた紙のこと)に重ねていく。
→その間に他の1枚の簀で漉き上げる。
→熟練した早業でこの工程を繰り返す。
・一枚の紙を漉くのに要する時間は1分強で、5分間に4枚、13枚の簀を1時間に4つ=52枚ほど漉く。

■漉いた紙を移し板に写す
・フネの右横に「移し板」を置き、漉いた紙を「移し板」に移す。
・通常の和紙製造では、積み重ねられた紙床の上に重石を乗せるなどして圧搾して脱水するが、高野紙の場合は紙床を圧搾しない

■漉いた紙を天日干しする
・木板(「紙つけ板」という)に3枚ずつ貼り付けて干す。
→高野紙の場合、紙つけ板に3枚ずつ貼り付けるのが原則。
→紙つけ板は松材で、寸法は5尺×1尺1寸。
→板に付いた側が紙の表になる。
・紙床から一枚ずつ剝ぎ取り、干板に掌のひらで紙の四方を撫でながら張る。
→普通は刷毛を用いるが、高野紙では刷毛を使わない
→したがって、中央の部分は板に密着させない。
→そのため、乾燥した紙に表裏の差がほとんどない(≒板に張り付いた平滑面がない)
・日当たりの良い場所、かつ、風のない日に干す。
→暖かい春の日なら1時間ほどで乾く。
→冬でも澄み切った天気の日には一日に3回ほど干すことができる。

■乾燥した紙を紙つけ板から剥がし、荷造りをする
・乾いた紙は端から剝がす。
・乾燥後、塵を除去するとともに、ムラ等がある不良品を除去する。
・このとき、出来上がりの質によって上・中・下に分類し、それぞれの紙を揃えて束にする。
→「下」はキズ等がある不良品である。
・唐傘の傘紙の場合、傘5本分の量は60枚である。
→紙の大きさは、縦約45㎝×横約31㎝である。
→傘紙60枚=1帖(「高野六十」という)、10帖=1束、2束半=1締と数える。
・1締の紙は、両側に蓋紙(ふたがみ)を当て、縦横を縄で締める。
→この状態で出荷する。

5.細川紙と風船爆弾

▼第二次世界大戦時に、旧日本軍が「ふ」号兵器(いわゆる風船爆弾)を開発してアメリカ本土を爆撃しようとしていたことは良く知られています。「ふ」号兵器の詳細はウィキペディアでもご覧になって下さい。簡単に言うなら、爆弾を積んだ気球がアメリカ本土まで風に乗って飛んで行くというもので、冗談みたいな方法ですがアメリカ本土で死者まで出しているので決して馬鹿にはできません。風船(気球)の表皮には、和紙が使用され、その和紙の生産地としては高知県、愛媛県、岐阜県、静岡県、茨城県、埼玉県、福島県、福井県があげられています(小林 2015)。風船爆弾を和紙と繋げたのは全国手漉和紙協同組合連合会という業界組織で、旧軍の技術将校とともに共同研究を行っていたようです。風船(気球)の材料は楮による手漉き和紙をコンニャク糊で貼り合わせたもので、楮で製造した手漉き和紙の強く、薄く、均一な性質が最適であるとして採用されました。風船爆弾は、大戦後期に福島県勿来(現福島県いわき市南東部)、茨城県大津(現茨城県北茨木市の長浜海岸)、千葉県一宮の3か所から放球されています。
▼さて、採用された手漉き和紙の中に「細川紙」と呼ばれるものがあります。これは埼玉県比企郡小川町と同秩父郡秩父村で製造されていた手漉き和紙で、さきに述べた高野紙の産地の一つ、伊都郡高野町細川から江戸期に技術がもたらされたことから細川紙と称されているとのことです。近世の手漉き和紙はギルド的秘密主義を貫いているはずが、保田紙にせよ、細川紙にせよ、秘伝の技術がダダ漏れ状態になっていたことになります。
(追補)細川紙について、東京紙商同業組合事務所は武州の細川紙は産地の小川で創製されたのではなく、紀州の細川村から起こったと指摘しているほか(東京紙商同業組合事務所 1941)、寿岳は近世の和紙産地のうち細川紙の原産地が不明であるとし、おそらく細川紙はもともと高野山麓の細川村で漉かれていたものが各地で模倣されるに至ったと考えられる(寿岳 1942)、加藤は細川紙は細川村が原産地であるが、現在は生産されておらず武蔵、信濃から同名の紙が生産されている(加藤 1958)、柳橋は比企郡の小川紙が伊都郡高野町細川をはじめとする他国産の類似品を漉いている(柳橋 1979)、とそれぞれ指摘しています。
▼ちなみに『工場通覧』という工場一覧表をみると、1944(昭和19)年に海南市日方に南海特殊工業株式会社という製紙工場が設立されており、「気球紙」を製造していたことになっています。あえてここでは深入りしませんが、なにか因果めいたものを感じます。
(追補)南海特殊工業という会社のことはいまだ不明ですが、風船爆弾の風船を日東紡績株式会社和歌山工場で製造していたことが判明しました。この時期の日東紡は、戦時中の企業整理によって和歌山県下の紡績会社を合併して一社体制となっていました。しかし、工場内の全ての紡績用機械を金属供出して操業を休止しており、風船工場として使われたようです。1944(昭和19)年頃に徴用工、勤労動員学徒、女子挺身隊員が和紙を貼り合わせていたこと、日方国民学校高等科(現海南市立日方小学校)生徒が勤労動員されて日東紡績で風船づくりに従事したとの記録が残されています(海南市史編さん委員会編 1994)。

文献

引用)中川善教(1941)『高野紙』便利堂.
引用)大阪府工業奨励館(1939)「商品の見分け方(三)」『家事と衛生』第15巻第10号、pp44-52.
引用)高嶋雅明(1985)『和歌山県の百年(県民100年史;30)』山川出版社、p144.
参考)後藤清吉郎(1964)『紙の旅』美術出版社.
参考)井村義丸(1958)「高野紙考」『六大新報』2553、pp13-14.
参考)寿岳文章(1942)「手漉和紙の歴史地理的研究序説(昭和十七年五月十二日報告)」『帝國學士院紀事』1(3)、pp435-456.
参考)海南市史編さん委員会編(1994)『海南市史.第1巻(通史編)』海南市.
参考)加藤晴治(1958)『和紙』産業図書.
参考)加藤晴治(1959)「手漉和紙の進展とその将来」『紙パ技協誌』13(9)、pp686-693.
参考)小林良生(2015)「太平洋戦争時登戸研究所の秘密戦兵器開発に対して製紙業界が行った生産協力―企画展『紙と戦争』に因んで―」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』1、pp3-38.
参考)小池洋一(1959)「高野紙手漉業地域の変貌」『人文地理』10(5-6)、pp28-42.
参考)九度山町史編纂委員会編(1965)『九度山町史』九度山町.
参考)松本作蔵・安中荘太郎編(1921)『和歌山県実業参考録』実業公益社.
参考)三谷二瑞(1941)『紀の川流域の特殊産業:紀の川流域の地質.其3』粉河中学校.
参考)西嶋東洲(1942)『日本紙業発達史』紙業出版社.
参考)農商務省編(1921)『会社通覧 大正8年12月31日現在』農商務省.
参考)農商務省工務局編(1904-1921)『工場通覧』農商務省工務局.
参考)農商務省工務局編(1914)『主要工業概覧』農商務省工務局.
参考)農商務省商工局編(1908)『各府県輸出重要品調査報告:附・産業概況 大阪、奈良、三重、滋賀、和歌山』農商務省商工局.
参考)小畑登紀夫(2012)「手漉和紙産業における光と影:近代化の歩みを産地にたどる」『近代日本の創造史』14、pp20₋34.
参考)世良明・後藤良造(1955)「手漉和紙に関する研究(第1報):製造過程中に於ける繊維の組成変化に就いて」『木材研究』14、pp42-49.
参考)紙業経済通信社調査部編(1935)『全国製紙工場綜覧』紙業経済通信社.
参考)紙業出版社編(1942)『紙業読本』紙業出版社.
参考)清水治久(2017)「小川町における和紙産業の発展要因と存続要因―コミュニティの内発的発展に着目して―」『日本地域政策研究』18、pp56-65.
参考)商工省編(1931-1949)『全国工場通覧』日刊工業新聞社.
参考)テレビ和歌山編(1976)『紀州路をゆく』帯伊書店.
参考)東京紙商同業組合事務所(1941)『紙業月報』19(10)、p15.
参考)和歌山県知事官房統計課編(1934)『和歌山県特殊産業展望 昭和9年』和歌山県知事官房統計課.
参考)和歌山県史編さん委員会編(1990)『和歌山県史. 近世』和歌山県.
参考)和歌山県総務部統計課編(1911-1940)『和歌山県統計書』和歌山県総務部統計課.
参考)山下実(2017)「和紙の変遷と未来像」『表面科学』38(6)、pp307-309.
参考)柳橋真(1979)「細川紙」『日本美術工芸』494、pp60-71.

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