【書評】『闇の精神史』木澤佐登志[2023] ジャンクな疎外論

 本題とは関係のない近況報告――
 下に載せるのは、1月1日の朝に書き上げた書評である。その日の夜、校正してnoteに投稿するつもりでいた。
 知ってのとおり、その日の16時10分、能登半島地震が発生。金沢市の私の自室では、2メートルを超える本棚が倒れ、床中に本が散乱し、とてもパソコンからnoteを更新するどころではなくなってしまった。
 地震発生時、私は外出中だったが、部屋にいたら高確率で死んでいただろう。
 1ヶ月ほど片付け作業に忙殺され、ようやく、パソコンで作業できる程度には部屋の機能が復旧した。地震については別の記事を投稿する予定だが、とりあえず、1月1日に投稿するつもりだった文章を載せる。


木澤佐登志[2023]『闇の精神史』早川書房.

評価:☆☆☆★★

 ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースの思想を手際よく概説した、ハヤカワ新書の一冊。文筆家・木澤佐登志の情報編集能力の高さが遺憾なく発揮されている。
 ただし、これらの思想について、ある程度の知識がある読者には物足りない内容かもしれない。私は不勉強なので教えられることが多かったが。


 以下、若干の批判。

 木澤の文章を読むたびに私が抱く素朴な感想は、「とても慎重な書き手だな」というものだ。文章の構成やリズムが緻密という意味でもそうだが、自分の思想の表明ということについても、木澤はとてつもなく慎重である。
 パチンコホールは規律権力型空間であるという、そう言われてみればうなずける独自の見解を表明したあとにすら、木澤は、慎重な留保を書き添えることを忘れない。

――とはいえ、別に筆者はパチンコホールが客に規律訓練を施している、といった主張がしたいわけでは特にない(そういった面もあるかもしれないが)。単にパチンコホールは近代のそうした建築空間をモデルにしている、と言いたいだけである。

[p.196]

 独自の思想の内容ではなく、情報を領域横断的に編集する営為そのものを思想として提示するのが木澤のスタイルということだろう。このスタイルは、<近代を乗り越えるのではなく、近代の夢(ただし近代自身すら必ずしも十分に意識化することのなかった夢)を救い出す>[p.292]という方針にかなうと同時に、コンパクトな新書から知識を得たい読者層のニーズにも、手堅く応えるはずである。
 そして、当然ここには、<近代の弁証法的プロセスの外部に抜け出す>[p.293]ための言説を、商業ベースで流布することに伴うジレンマ――すなわち、「外部」を志向する言説を資本主義の「内部」で商品化することに伴う、昔ながらのジレンマもあって然るべきはずだ。
 しかし木澤は、そのようなジレンマが存在することすら、慎重に抹消するかのようである。
 本書の末尾を引用しよう。

[…]近代を構成していた要素をバラバラに分解し、個々の部品を精査し、別の組み立て方の可能性を探索すること。こうしたアプローチによってはじめて、近代の弁証法的プロセスの外部に抜け出すことができるのだとしたらどうだろう。

 時間の流れとともに忘れ去られていった、実現されなかった可能性や失われた夢。瓦礫と塵埃の中からそれらの破片を掘り起こして未来の消失点から差し込んでくる一条の光に反照させんとする営為こそは、未来を想像することのできないノーフューチャーな現在において意味を持ちうるのではないだろうか。

[pp.292-3]

 これは、どこにも「外部」のない<ノーフューチャーな現在>においては、<実現されなかった可能性や失われた夢>を掘り起こす営為そのものが、「外部」的なるものとしての機能を代行しうる、という意見表明以上のものではないだろう。だが、「外部」ではないものが「外部のようなもの」として商品化され、大量に流布されることこそが、<ノーフューチャーな現在>を構成するのではないか――というあまりにも当たり前の視点は、おそらく故意に、抹消されている。


 本書で実質的に「外部」的なるものとして名指しされるのは、サイバースペース/メタバースが排除したものとしての政治的ラディカリズムや、「身体」だ。
 メタバースについて木澤は、筋痛性脳脊髄炎患者がVRデバイスの装着に苦痛を感じた例を挙げ、<そこでは健常的=健康的な身体こそが暗に前提とされている>ことを指摘する。[p.250]アメリカ開拓者にとって先住民がそうだったのと同様、サイバースペース/メタバースにおいても、「身体」は「不気味なもの」を伴って回帰する。木澤は、フーコーやスピノザを援用して、<汲み尽くせぬ潜在的多様体><世界を構成する「ゼロ地点」>としての身体を称揚し、身体を起点として<権力というアーキテクチャに抗い、ユートピア的なアーキテクチャを生成すること>を提言する。ただし、それが<どのように発明可能なの>かということについては、あくまで慎重に、<明確な答えを筆者はまだ持たない>と留保する。[pp.273-4]
 ここで木澤が展開するのは、驚くほど素朴な疎外論――すなわち、世界から排除されてきたものには、世界を変革しうる実体的な潜在力が秘められているはずだという、素朴な信仰告白である。
 確かに、疎外論的な思考が有効な場面は今なおあるのかもしれない。また、VRゴーグル越しの世界なんぞより、他ならぬ自分の身体を起点の一つとするべきだという意見(感性)にも、それ自体としては特に異論はない。薄っぺら極まる「メタバース進化論」が、障害者の身体を無自覚に排除してきたことや、アーキテクチャを通じた支配に対して無防備なことなどは、徹底的に批判されるべきだと私も思う。
 だが、「まだ社会に包摂されていない領域」を抵抗の根拠として発見することこそが、新たな社会的包摂の契機を生むという相補的なメカニズムを度外視したまま、「ユートピア的身体」を称揚することは無意味だろう。
 特に、技術による包摂を拒む領域として、漠然とであれ、障害者の身体がイメージされる場合はなおさらだ。現時点のVRデバイスと筋痛性脳脊髄炎の場合は相性が悪かったかもしれないが、一般に障害者は、<健常的=健康的な身体>の持ち主よりも、遥かに技術の恩恵を多く受けることで社会に包摂されるのだ。最も楽観的なメタバース肯定論者にとっては、ある障害者がメタバースをうまく利用できなかった事例は、メタバースを否定する材料ではなく、技術を進化させて、さらに広くメタバースの恩恵を行き渡らせるべき証拠となるはずである。このような肯定論に対して、個別の障害者がメタバースから排除された事例をいくらぶつけても、批判にはならない。

 注――なお、言うまでもないが、「メタバースから排除された障害者」の苦痛と、「現実社会ではうまく生活できないが、メタバースのおかげでやりたいことをできるようになった障害者」の幸福を、天秤にかけるような議論も無意味である。どちらも当人にとっては真実なのだ。

 メタバースを否定すべきなのだとすれば、極端に言えば、もしも技術の進歩によってすべての障害者がメタバースを利用できるようになり、メタバース利用者全員が身体的な違和感を全く覚えないようになったのだとしても、それでもなお、メタバースを否定し続けなければならないのだ。それは、場合によっては、メタバースの恩恵を最大限にこうむる障害者の幸福を、一方的に踏みにじることですらあるだろう。だが、抵抗の根拠を、「障害者は思うようにデバイスを使えない」というような個別的エピソードに還元する限り、<権力というアーキテクチャ>に真に抗うことはできないはずである。大抵の場合、権力は、「抗う」よりも遥かに魅力的な解決策を差し出すことで、抵抗を無意味にしてしまうからだ。(「インフラを維持するため、労働者たちがリスクの高い仕事に従事させられていること」や、「ICTセクターにおける消費電力が急増していること」すら、個別的エピソードである)。
 重要なのはむしろ、<世界を構成する「ゼロ地点」>などどこにもないのだという厳然たる事実を直視することだろう。<アーキテクチャによる統御を逸脱するような身体のあり方>[p.274]の顕在化は、即座にアーキテクチャによる統御へと回収されていく。身体を「ゼロ地点」として名指しすることは、そうあってほしい「身体」への需要を即時的に満たしうる、ジャンクなイメージの供給を市場に促すことでしかないだろう。
 木澤は、<明確な答えを筆者はまだ持たない>という理由から、そのイメージを具体的に描写しない。それは誠実な態度なのかもしれない。だが、それは同時に、そこに呼び寄せられることになるジャンクなイメージを、あらかじめ慎重に隠蔽することでもあるはずだ。
 皮肉な言い方をすれば、本書から読み取るべきなのは、「思想の表明に慎重であること」や「現在がノーフューチャーだと認識していること」によって、「疎外されてきたもの」を名指しし「外部」的なるものとして売り出す営為が、免罪されるメカニズムなのかもしれない。


 以上、かなり辛辣なことを書いてしまったが、ある種の思想の見取り図として優良な概説書ではあると思う。木澤佐登志は、疑いなく優秀な文筆家であり、優秀な(広義の)編集者だ。
 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う<ダーク>な思想』(星海社新書)ともども、いくつかの条件のもとで、おすすめできる一冊ではある。


(2024年1月1日執筆)

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