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セルフコンパッション

おうちで椅子に座りながら、携帯をいじり、テレビの音声を流す。「なんか面白いものないかなー」ってTwitterを見たり、YouTube で面白い動画を探している。「料理したいなー」とか思いながらレシピサイトも見る。何も目的意識ないときほど、虚しくて、そんな時ほど決断するのに時間がかかる。「探していればきっと出でくるはず!」と思って流れてくるものを追っている。今ならわかる。特になんもないよって笑

自分の本当の姿を見たくないし、見たくないから外部に楽しみを見出してコンテンツを消費する。自分のやっている行動を客観的に見ずにただただ消費して、時間を過ごしてしまう。やっている行動に自信がないから、何かしながら行動をし、自分を見つめるということをしない。甘えているよな、逃げているよなって。散歩もするけど、ただ歩いてその時間は自分を見つめていると思ってたけどそうでもないのかななんて。歩くという行動を消費しているだけなんかもな。

こんな時間の過ごし方でいいのかななんて。良くないとはなんとなく思う。でも、なんで良くないかとかはわからない。良い状態ってなんだ?それができたら本当に満足なのか?とかその状態にすらなっていないし、やろうとも思っていないのにはじめから諦めている自分がそこにいる。覚悟が足らないのかな。覚悟ってなんだよ。とか思ってしまっている時点で今は覚悟できないんだろうなってことがわかってしまう。

自分のする行動に自信が持てないから外部に正解を求めてそれに対して全力で向き合ってしまい、その結果人と比べて、悶々と悩んだりするんだろうな。書いている今、その状況を客観的に見れている今なら少しだけ優しい言葉をかけられる。「ちゃんと相手見て、理解しようとしているんだね、偉いね」って。悩んでいる自分が好きみたいな変なモードにすら入ってしまいそう。悩んでいる時であっても、「これが悩み」って言えないし、それが違ったらどうしようみたいなモードに入ってしまう。

主観で綴ってきて改めて文章読むと、ある種「自分中心で自分好きやん!」ってなってしまう。なんなんだこの文章。勝手に思っただけだけど、理由なんて特にいらないよね笑

書いてスッキリするみたいなことはわかっているつもり。ここの場所で散々綴っている私。ほぼほぼ本音で綴っている。それでもマイナスの感情を書くのってやっぱり抵抗がある。でも、正直に素直に書きたいという気持ちが勝ってしまう。だからそのまま綴ってしまう。このマイナスを綴ったらそうなってしまうんじゃないかなって。やっぱり考えすぎかな笑悩んでいることは書けばスッキリするっていうけど、書いたら認識してしまわないのかなって。そう思っている自分も書くことでスッキリしているんよなー。なんか不思議。

自分と向き合うには、本当にありのままの自分、等身大の自分を見つめないといけない。「今、私は何を思っているだろう」って。そして、「これから何をしたい?」それが明確に決まっても決まらなくてもいい。少し動いてみませんか?センサーの動くままに。

醜い自分をちゃんと見れているだけで凄い。そうやって自分と向き合うんだなって。それを「自分を受け入れる」って言うんだなって。

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