終活

私は、指導者になりたい。

今、縁あって、たまたま日本語教師という職業を通して、留学生に日本語を指導する立場にある。

日本語教師の仕事を始めて7年…
人に何かを教えるというのは、生易しいことではないと、毎年思い知らされる。

日本語教師になる以前、飲食店で店長をしていた頃も学生のアルバイトさんや主婦のパートさんらに店の運営やマニュアルについて指導することはあった。
それでも、今は曲がりなりにも「先生」と呼ばれながら日々を過ごしているわけであるから、自惚れることなく、気を引き締めて教育者としての自覚を持つように努めている。

ここで少し余談だが、学生に向かって自分のことを「私は~」ではなく「先生は~」と一人称で「先生」という語を使うことに違和感を抱く教師がいるようだが、自分は特に気にしない。

留学生たちの親御さんらと年齢が変わらないわけだし、親と子ほどの年齢差がある中で学生たちを子どものように窘めることがあるのもごく普通なことだと思っている。

違和感を覚える人は、留学生を「1お客様」としてお取り扱いしなければならないところを「お子ちゃま」扱いするのは如何なものか、と持論を展開するわけだ。
そういった点が人(他の教師)を見下した偉ぶった態度に繋がるという自覚は持てないらしい。
人を見下す態度を示す人にはいくつか共通点があり、それについても言及したいのだが、今話せば、また長文になってしまうので、今回は辞めておこう。

話が蛇行したので元に戻す。

私は指導者になりたい。
現時点でも、指導者に違いないわけだが、最近では「武道」の指導者になりたいと思うように至った。
自分にとっての「武道」は、やはり「居合」であり、この「居合」に精通したい、極めたいという思いが増してきている。

それは、何故か。

「武道」「古武術」と呼ばれるものの中には、様々な生活の知恵が含まれているように感じてならないからだ。

一方で、「言語」はあくまで、人とコミュニケーションをとる上での1ツールである。
仮に、言語が習得できていなくても、数年であれば外国で生活することは可能であるということは、過去にタイで生活をした実体験を通じて学んだ。

「武道」には、「体の使い方」、「心の持ちよう」、「先人の知恵」、「礼儀作法」、「歴史と伝統文化の継承」といった要素がふんだんに盛り込まれている。

そのような「武道」を指導する立派な先生方には心から敬服する次第である。

中にはもちろん、日本語教師もそうだが、名ばかりの指導者もいるかと思う。

実力も教養も道徳心もない者が、周囲に担ぎあげられて、偶然に指導者となることもあるだろう。

そうではなくて、自他ともに認める指導者となるために、これから更に見聞を広め、「武道」を周りに堂々と語れる人材になりたい。

といっても、すぐになりたいとは思わない。

これは、定年を迎えてから死ぬまでの間の、ひとつの夢である。

いわゆる、「終活」というものか。

「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という有名な文言があるが、死に様は、格好つけて散っていきたいものである。




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