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耶律楚材について

 耶律楚材ってチンギス・ハンの側近じゃなかったんだよね。  彼の息子が父のことを誇大に宣伝したんだっけか?  たんなる書記官だからね。  『黒韃事略』(こくだつじりゃく)より。  南宋・彭大雅 (ほうたいが)、徐霆(じょてい)撰 「移剌及鎮海自號為中書相公,總理國事(中略)韃人無相之稱,即只稱之曰「必徹徹」。必徹徹者,漢語令史也,使之主行文書爾」  移剌(いらつ、耶律)楚材および鎮海(チンカイ)は「自ら号(自称)して中書相公(中書令)とし」、国事を統轄・処理した(

    • 『資治通鑑』胡三省注 隋紀の翻訳について

       『資治通鑑』胡三省注 隋紀の翻訳の続きは  https://ncode.syosetu.com/n4690hc/5/  に移動しましたので、宜しくお願い致します。

      • 突然ですが『続資治通鑑』の一部を訳してみました2。

        『続資治通鑑』(ぞくしじつがん)、清・畢沅(ひつげん)著。 巻第一 宋紀一 太祖(趙匡胤) (北宋)建隆(けんりゅう)元年(960)  春、正月、五日、(後)周・帰徳軍節度使(きとくぐんせつどし)、検校太尉(けんぎょうたいい)、殿前都点検(でんぜんとてんけん)・趙匡胤(ちょうきょういん)皇帝を称す。

        • 突然ですが『続資治通鑑』の一部を訳してみました。

           至正(しせい)二十八(1368)年 閏七月二十八日。  原文 「天下者、世祖之天下、陛下当死守、奈何弃之」  訳 「天下は是、世祖(クビライ)の天下であり、陛下(トゴン・テムル、順帝)はまさに天下を死守されるべきであります。そうであるのに陛下はどうして天下をお捨てになるおつもりなのですか!」『続資治通鑑』・巻第二百二十。

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (3)

           煬帝は即位し、李渾(りこん)は昇進を重ねて右驍衛(うぎょうえい)大将軍に至り、改めて郕公(せいこう)に封じられたが、煬帝は彼の一族が強大にして勢いがある事によって李渾を恐れた。  ちょうど方士(ほうし)の安伽陀(あんかだ)という者がいて、「李氏が天子となるでしょう」と言い、煬帝に天下の李姓の者を誅殺し尽くす事を勧めた。  李渾の従兄弟の子である将作監(しょうさくかん)の李敏(りびん)は、幼名を洪児(こうじ)と言い、煬帝はその名が予言に当てはまっている事を疑い、常に李敏に

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (3)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (2)

           煬帝は戸籍にある者が逃亡し、盜賊が多いことにより、2月7日民に詔して全て城内に居住させ、農地を城の近くに与えた。  郡県・駅舎・村落は皆砦を築いた。  上谷郡(じょうこくぐん)の賊の頭目王須抜(おうしゅばつ)は自ら漫天王(まんてんのう)と称し、国号を燕とし、賊の頭目魏刀児(ぎとうじ)は自ら歴山飛(れきざんひ)と称し、軍勢各々十万余を擁して、北は突厥と連合し、南は燕、趙の地に侵攻した。  初め、文帝(楊堅)は洪水で都城(とじょう、大興城の前に都であった旧長安城)が沈む夢

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (2)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (1)

           大業(たいぎょう)十一年春、正月、秘書省(ひしょしょう)の官を百二十人に増やし、また学士によってこれを補った。  煬帝は読書や著述を好み、揚州総管(ようしゅうそうかん)になってから、晋王(しんおう、煬帝は皇太子となる前は晋王であった)府に学士を置いてその数は百人に至り、常に編纂をさせ、そして彼は帝位に即くに至ったが、その前後の二十年近く、編纂は今まで一時も停止せず、網羅した分野は儒学の経典の研究、文章、兵法、農業、地理、医術、占い、仏教、道教から、しまいには樗蒲(ちょぼ)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (1)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (7)

           斉郡(せいぐん)の賊の頭目・左孝友(さこうゆう)は軍勢十万を率いて蹲狗山(そんくざん)に拠り、斉郡の郡丞・張須陀(ちょうすだ)は陣を連ねて蹲狗山に迫り、それにより左孝友は追い詰められて投降した。  そして張須陀の威光は東中国に響き渡り、功によって斉郡の通守(つうしゅ)に昇進し、河南道十二郡黜陟討捕大使(かなんどうじゅうにぐんちゅっちょくとうほたいし)を兼任した。  涿郡(たくぐん)賊の頭目・盧明月(ろめいげつ)は十万余りの兵を率いて祝阿(しゅくあ)に駐屯し、張須陀は兵一

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (7)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (6)

           東海郡(とうかいぐん)の賊の頭目・彭孝才(ほうこうさい)は、沂水(ぎすい)に転進して略奪したが、彭城郡(ほうじょうぐん)の留守(りゅうしゅ)董純(とうじゅん)は討伐して、彭孝才を虜にした。  しかし董純は戦ってたびたび勝つといえども、盜賊は日を追うごとに増え、ある者が董純は臆病であると讒言(ざんげん)をしたため、煬帝は怒り、(煬帝は人に命じ)董純に枷をはめ鎖で繋いで東都に護送させ、彼を誅殺した。  ところで斉郡(せいぐん)の孟讓(もうじょう)は長白山(ちょうはくざん)よ

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (6)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (5)

           11月21日、離石郡(りせきぐん)の異民族である劉苗王(りゅうびょうおう)が反乱を起こし、自ら天子を称して、軍勢は数万に至り、将軍・潘長文(はんちょうぶん)が劉苗王を討伐したが、勝てなかった。  汲郡(きゅうぐん)の賊の頭目・王徳仁(おうとくじん)は軍勢数万を擁し、林慮山(りんりょざん)を根拠地として盗賊行為をした。  ところで煬帝(ようだい)が東都に行幸しようとしたため、太史令(たいしれい)の庾質(ゆしつ)が諌めた。 「連年の遼東(りょうとう、高句麗)討伐により、民

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (5)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (4)

           最初、文帝(ぶんてい、楊堅)の開皇(かいこう)年間の末、国家は大いに栄え、朝廷(政府)と民間の者は皆、高句麗を討伐すべきと主張し、そんな中で劉炫(りゅうげん)は一人、討伐を行ってはならないと考え、撫夷(ぶい、東方の異民族をなだめる)論を著して、高句麗を討伐すべきという主張を風刺し、そしてこのような状況になって、劉炫の主張は初めて的確であったことが証明された。  11月2日、煬帝(ようだい)は斛斯政(こくしせい)を大興城(だいこうじょう)の金光門外(きんこうもんがい)で処刑

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (4)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (3)

           8月4日、煬帝は懐遠鎮(かいえんちん)より軍を返した。  邯鄲(かんたん)の賊の頭目・楊公卿(ようこうけい)はその一党八千人を率いて、煬帝の車駕を後方から守る第八隊を襲い、(御馬(皇帝の馬)を管理する尚乗局(しょうじょうきょく)の中でも第一等の厩舎)飛黄閑(ひこうかん)の馬四十二頭を奪って去った。  冬、10月3日煬帝は東都(洛陽)に至り、10月25日西京(せいけい、大興城、長安)に帰還した。  そして高句麗の使者および斛斯政(こくしせい)を連行させて太廟(たいびょう

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (3)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (2)

           秋、7月17日、煬帝(ようだい)の車駕は懐遠鎮(かいえんちん)に停留した。  時に天下はすでに乱れ、徴発した兵士の多くは定められた期日を過ぎてもやって来ず、高句麗(こうくり)もまた疲れ果てていた。  ところで来護児(らいごじ)は軍を率いて畢奢城(ひつしゃじょう)に至り、高句麗は挙兵して来護児軍を迎撃し、来護児軍は攻撃して高句麗軍を破り、まさに(高句麗の都である)平壤に向かって進軍しようとしたので、高句麗王・高元は恐れ、7月28日、使者を派遣して投降することを申し出、(高

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (2)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (1)

           春、2月3日、煬帝は百官に詔して高句麗を討つ事を議論させたが、数日、敢えて発言する者はいなかった。  2月20日、詔して再び天下の兵を召集し、いくつもの道から同時に進ませた。  2月29日、扶風(ふふう)郡の賊の頭目・唐弼(とうひつ)は、李弘芝(りこうし)を擁立して天子とし、軍勢十万を有し、自らは唐王(とうおう)と称した。  3月14日、煬帝は涿郡(たくぐん)に行幸、一方兵士は遠征の途上で、逃亡する者が相次いだ。  3月25日、煬帝は臨渝宮(りんゆきゅう)に至り、黄

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (1)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業9(613)年 (30)

           章丘(しょうきゅう)の杜伏威(とふくい)は臨済(りんせい)の輔公祏(ほこうせき)と刎頸(ふんけい)の交わりを結び、共に亡命して群盗となった。  杜伏威の年は十六、常に出撃すると前線に居り、撤退する時は殿(しんがり、軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐ)を務め、これにより杜伏威の仲間は彼を推戴して自分達の首領とした。  下邳(かひ)郡の苗海潮(びょうかいちょう)もまた、多くの者を集めて群盗となったが、杜伏威は輔公祏を派遣して苗海潮に言った。  「今我と君は同じく隋の暴政に

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業9(613)年 (30)

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業9(613)年 (29)

           煬帝は更に江都(こうと)郡の郡丞(ぐんじょう)である王世充(おうせいじゅう)を派遣し、淮南(わいなん、淮河(わいが)より南、長江より北の地)の兵数万人を徴発させ、劉元進(りゅうげんしん)を討たせた。  王世充は長江を渡り、劉元進と度々戦って全て勝ち、劉元進、朱燮(しゅしょう)は呉県において敗死し、その残党のある者は降り、ある者は逃散した。  王世充は先に降った者を通玄寺(つうげんじ)の仏像の前に呼び集め、香を焚いて誓いを為し、降る者は殺さないと約束した。  逃散してい

          資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業9(613)年 (29)