資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (4)

 最初、文帝(ぶんてい、楊堅)の開皇(かいこう)年間の末、国家は大いに栄え、朝廷(政府)と民間の者は皆、高句麗を討伐すべきと主張し、そんな中で劉炫(りゅうげん)は一人、討伐を行ってはならないと考え、撫夷(ぶい、東方の異民族をなだめる)論を著して、高句麗を討伐すべきという主張を風刺し、そしてこのような状況になって、劉炫の主張は初めて的確であったことが証明された。

 11月2日、煬帝(ようだい)は斛斯政(こくしせい)を大興城(だいこうじょう)の金光門外(きんこうもんがい)で処刑したが、その処刑の仕方は楊積善(ようせきぜん)を処刑した方法と同じで、煬帝はその上彼の肉を煮て、百官にこれを食らわせ、煬帝に媚びへつらう者は、過剰にこれを食らって腹が膨れ、そして残った骨を集めさせ、さらにそれを焼いて残った灰を捨てさせた。

 11月11日、大興城の南郊で祭天(さいてん、天を祭る)儀式を行ったが、煬帝は斎宮(さいぐう、斎戒のためにこもる宮殿)で、斎戒(さいかい、祭天の前に飲食や行動を慎み心身を清めること)を行わなかった。

(11日)早朝、煬帝は法駕(ほうが、皇帝の車駕の一種)に乗り馬車や儀仗隊を従え、南郊に至ってすぐに祭天儀式を行った。

 この日、強風が吹き荒れた。

 煬帝は一人で天帝を祭り、三公は手分けをして五帝を祭った。

 儀式が終わると、煬帝は車駕(皇帝の馬車)を疾走させて宮中に帰った。

訳者注

※祭天の儀式を行う皇帝は、祭天前の数日間斎宮で斎戒を行い、当日の早朝に都の南郊にある祭壇に至って、祭天の儀式を行った。

※法駕は皇帝が最大規模の儀仗隊(ぎじょうたい)を従えて出行する、大駕(たいが、これも皇帝の車駕の一種)に比べて随行する馬車の数が少なく、儀仗隊の規模が小さい。

※三公(さんこう→太尉(たいい)・司徒(しと)・司空(しくう)は、最高位にある三つの官職、隋唐時代には実権のない名誉職であった、そして三公は時代によって異なる)

※五帝(ごてい、黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)という中国古代の伝説上の帝王)

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