資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (7)

 斉郡(せいぐん)の賊の頭目・左孝友(さこうゆう)は軍勢十万を率いて蹲狗山(そんくざん)に拠り、斉郡の郡丞・張須陀(ちょうすだ)は陣を連ねて蹲狗山に迫り、それにより左孝友は追い詰められて投降した。

 そして張須陀の威光は東中国に響き渡り、功によって斉郡の通守(つうしゅ)に昇進し、河南道十二郡黜陟討捕大使(かなんどうじゅうにぐんちゅっちょくとうほたいし)を兼任した。

 涿郡(たくぐん)賊の頭目・盧明月(ろめいげつ)は十万余りの兵を率いて祝阿(しゅくあ)に駐屯し、張須陀は兵一万を率いて盧明月を迎撃した。

 そして相対すること十日余り、張須陀軍の兵糧は尽き、間もなく撤退しようとしていた。

 そこで張須陀は将校に言った。

「賊軍は我が退くのを見れば、必ず全軍で我を追撃してくるであろう、もしその時、別働隊千人を率いて賊軍の陣営を襲撃し占拠すれば、賊軍に大勝することができるだろう。別働隊の指揮はまことに危険な任務だが、誰か行こうという者はおらぬか?」と。

 だが将校で返答する者は無く、ただ羅士信(らししん)および歴城(れきじょう)の秦叔宝(しんしゅくほう)が行くことを申し出た。

 そのようなわけで張須陀は陣を捨てて退却し、二人を分けて、千の兵を率いて葦の群れの中に伏せさせ、盧明月は全軍を以て張須陀を追撃した。

 羅士信、秦叔宝は駆けて盧明月の陣に至ったが、陣の門は閉じていた、二人は陣の楼に上り、各々敵兵数人を殺し、陣中は大いに乱れ、二人は陣門を斬り開いて、外にいた味方の兵を陣に引き入れ、そして火を放って盧明月の三十余りの陣を焼き、煙と炎は空に満ちた。

 自陣の危機を知った盧明月は取って返し、張須陀は軍を反転して全力を挙げて攻撃、大いに盧明月を破り、盧明月は数百騎を従えて逃れ去り、捕らえた者、斬った者は数え切れなかった。

 叔宝(しゅくほう)は名を瓊(けい)と言い、(名の瓊よりも)字(あざな)の叔宝で呼ばれる。

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