資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (5)
11月21日、離石郡(りせきぐん)の異民族である劉苗王(りゅうびょうおう)が反乱を起こし、自ら天子を称して、軍勢は数万に至り、将軍・潘長文(はんちょうぶん)が劉苗王を討伐したが、勝てなかった。
汲郡(きゅうぐん)の賊の頭目・王徳仁(おうとくじん)は軍勢数万を擁し、林慮山(りんりょざん)を根拠地として盗賊行為をした。
ところで煬帝(ようだい)が東都に行幸しようとしたため、太史令(たいしれい)の庾質(ゆしつ)が諌めた。
「連年の遼東(りょうとう、高句麗)討伐により、民衆はまことに疲れ果てていますので、陛下はまず関内(かんない)の民心を穏やかになさるべきで、その上で民衆を農耕と養蚕に専念させれば、三年から五年の間に、天下はだんだんと豊かになるでしょう、それから再び視察のために巡行なされれば、行いとして良いと思われます」と。
しかし煬帝はこの言を喜ばなかった。
そして庾質は病を口実にして巡行に従わなかったので、煬帝は怒り、庾質を獄に下し、彼はついに獄中で死んだ。
12月9日煬帝は東都に向かい、天下に大赦を行い、12月25日東都に入った。
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