資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (2)

 秋、7月17日、煬帝(ようだい)の車駕は懐遠鎮(かいえんちん)に停留した。

 時に天下はすでに乱れ、徴発した兵士の多くは定められた期日を過ぎてもやって来ず、高句麗(こうくり)もまた疲れ果てていた。

 ところで来護児(らいごじ)は軍を率いて畢奢城(ひつしゃじょう)に至り、高句麗は挙兵して来護児軍を迎撃し、来護児軍は攻撃して高句麗軍を破り、まさに(高句麗の都である)平壤に向かって進軍しようとしたので、高句麗王・高元は恐れ、7月28日、使者を派遣して投降することを申し出、(高句麗に逃げ込んでいた)斛斯政(こくしせい)を捕らえて送った。

 これに煬帝は大いに喜び、来護児のもとに使者を派遣して(皇帝から命を受けた証である)符節(ふせつ)を示させ、来護児を召して帰還させようとした。

 来護児は部下を集めて言った。

「大軍三度(みたび)遠征し、未だ賊(高句麗)を平らげる事が出来ていないのに、ここで帰還してしまえば再び遠征することは不可能だ。それでは労力を費やしただけで功は無く、我は密かにこれを恥じる。今高句麗は確実に疲れ果てており、この軍勢で高句麗を攻撃すれば、数日も経たないうちに平壌を攻め落とす事が出来る。それゆえ我は進軍して直ちに平壤を包囲する事を望み、高元を捕らえ、陛下に勝利を献上して帰還する、これはまた善いことではないか!」と。

 そこで来護児は上書して進軍する事を願い出、勅命を謹んで受ける事に同意しなかった。

 それに対して長史(ちょうし、参謀長)の崔君肅(さいくんしゅく)は来護児を強く諫めたが、来護児は彼の言葉に耳を貸さず言った。

「賊軍にもはや抵抗する力は無く、その上我を信用して指図に従えば、賊を処罰するのに十分である。そして我は朝廷の外にいるのだから、物事に取り組むに当たっては独断すべきであり、むしろ高元を捕らえて帰還し罰を受けたとしても、この成功の機会を捨てることはできない!」と。

 それを聞いた崔君肅は来護児の部下に告げた。

「もし元帥(来護児)に従い詔書に逆らえば、必ず陛下に上奏され、皆きっと罪を得るであろう」と。

 これを聞いた諸将は恐れ、来護児へ共に帰還することを願い出、そこで来護児はようやく初めて勅命を謹んで受け入れた。

訳者注

※『資治通鑑』の翻訳の日付は全て新暦ではなく中国暦(旧暦)です。

※将軍は朝廷の外で(戦場のおいて)は君主の命令に従わない場合がある(戦場では刻々と状況が変わるので、その度に君主の指示を仰いでいたら戦いにならないため)→参考、漢籍電子文献『史記』孫子・呉起列伝 第五(P2161)

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