資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (2)

 煬帝は戸籍にある者が逃亡し、盜賊が多いことにより、2月7日民に詔して全て城内に居住させ、農地を城の近くに与えた。

 郡県・駅舎・村落は皆砦を築いた。

 上谷郡(じょうこくぐん)の賊の頭目王須抜(おうしゅばつ)は自ら漫天王(まんてんのう)と称し、国号を燕とし、賊の頭目魏刀児(ぎとうじ)は自ら歴山飛(れきざんひ)と称し、軍勢各々十万余を擁して、北は突厥と連合し、南は燕、趙の地に侵攻した。

 初め、文帝(楊堅)は洪水で都城(とじょう、大興城の前に都であった旧長安城)が沈む夢を見て、内心これを嫌い、それにより都を大興城に遷した。

 申明公(しんめいこう)の李穆(りぼく)が薨去(こうきょ、貴人が死去すること)すると、孫の李筠(りいん)が爵位を継いだ。

 その叔父である李渾(りこん)は李筠がケチであることを恨み、兄の子である李善衡(りぜんこう)に李筠を殺害させ、李筠の従弟である李瞿曇(りくどん)が殺害したとでっち上げ、李瞿曇はそれによって斬られた。

 李渾は妻の兄である左衛率(さえいそつ)の宇文述(うぶんじゅつ)に言った。

「公のお力添えでもし申明公の爵位を継ぐことができましたなら、まさに毎年封地からの税収の半分を公に差し上げます」と。

 そこで宇文述は李渾のために、当時皇太子であった煬帝にこの事を言上し、皇太子・楊広(ようこう、広は煬帝の諱(いみな)→名)は文帝にその事を上奏し、李渾に李穆の爵位を継承させた。

 しかし二年の後、李渾はもう封地からの税収の半分を宇文述に納めなくなり、宇文述は大いに李渾を恨んだ。

 

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