資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業11(615)年 (3)

 煬帝は即位し、李渾(りこん)は昇進を重ねて右驍衛(うぎょうえい)大将軍に至り、改めて郕公(せいこう)に封じられたが、煬帝は彼の一族が強大にして勢いがある事によって李渾を恐れた。

 ちょうど方士(ほうし)の安伽陀(あんかだ)という者がいて、「李氏が天子となるでしょう」と言い、煬帝に天下の李姓の者を誅殺し尽くす事を勧めた。

 李渾の従兄弟の子である将作監(しょうさくかん)の李敏(りびん)は、幼名を洪児(こうじ)と言い、煬帝はその名が予言に当てはまっている事を疑い、常に李敏に面と向かってこの事を告げ、彼が自決することを願った。

 これを李敏は大いに恐れ、しばしば李渾および李善衡と人払いをして密談をしたが、宇文述はこの事を煬帝に讒言し、さらに虎賁郎將(こほんろうしょう)・河東の裴仁基(はいじんき)に上表して李渾の謀反を告げさせた。

 そして煬帝は李渾等の家の者を捕らえ、尚書左丞(しょうしょさじょう)の元文都(げんぶんと)、御史大夫(ぎょしたいふ)の裴蘊(はいうん)を派遣し、この件を審理させ、取り調べること数日、謀反の証拠を得ることが出来ず、実情を煬帝に上奏した。

 煬帝はさらに宇文述を派遣して、この件について徹底的に取り調べさせ、宇文述は李敏の妻・宇文娥英(うぶんがえい)を諭して上表文を作らせ、李渾の謀反は隋軍が遼河を渡っているところを、利用しようと謀っていたと讒言させた、「李渾の一族の子弟で将官である者と共に隋軍を襲撃して本隊を捕捉し、そして李敏を立てて天子にしようとしていた」と。

 宇文述はこの上表文を持って参内し、煬帝にこの事を上奏すると、煬帝は泣いて言った。

「朕の国家は危うく倒れるところであったが、公のおかげで国家を保つことが出来た」と。

 3月5日、李渾、李敏、李善衡およびその一族三十二人を誅殺し、三族(父母、兄弟、妻子)に当てはまる者は、皆辺境に流刑した。

 数ヶ月後、李敏の妻・宇文娥英も煬帝から鴆毒(ちんどく、鴆という鳥の毒)による死を賜った。

訳者注

※宇文娥英(うぶんがえい、彼女は隋の前の王朝である北周(ほくしゅう)の天元(てんげん)皇帝(宣帝)と、煬帝の姉・楊麗華(ようれいか)の娘であり、煬帝の姪に当たる)

胡三省注にも上記と類似の記述あり。

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