資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (6)

 東海郡(とうかいぐん)の賊の頭目・彭孝才(ほうこうさい)は、沂水(ぎすい)に転進して略奪したが、彭城郡(ほうじょうぐん)の留守(りゅうしゅ)董純(とうじゅん)は討伐して、彭孝才を虜にした。

 しかし董純は戦ってたびたび勝つといえども、盜賊は日を追うごとに増え、ある者が董純は臆病であると讒言(ざんげん)をしたため、煬帝は怒り、(煬帝は人に命じ)董純に枷をはめ鎖で繋いで東都に護送させ、彼を誅殺した。

 ところで斉郡(せいぐん)の孟讓(もうじょう)は長白山(ちょうはくざん)より諸郡に侵攻して略奪し、盱眙(くい)に至り、軍勢十万余りを擁し、都梁宮(とりょうきゅう)に拠り、淮河を天然の防壁として守りを固めた。

 江都(こうと)郡丞(ぐんじょう)の王世充(おうせいじゅう)は兵を率いて孟讓の攻撃に抵抗し、五つの砦を作って要害の地を塞ぎ、老弱の兵を出して自軍が弱いように見せかけた。

 孟讓はこれを笑って言った。

「王世充は文書と法律を扱う小役人に過ぎない、奴にどうして兵を統率する事ができようか!我は今日奴を生け捕りにして、太鼓を打ち鳴らして進軍し、江都(こうと)に入るのみ!」と。

 時に民は皆、砦を築いて自ら守りを固め、村々に略奪できる所は無く、賊兵は徐々に飢え、それにより孟讓は少数の兵を陣営に留め、出撃して王世充の五つの砦を包囲し、一部の兵を分け南方に進行して略奪をさせた。

 しかし王世充は賊兵の気が緩んでいる様子を見、号令を発して出擊、大いに賊軍を破り、孟讓は数十騎を従えて逃げ去り、斬った首は一万余りに上った。

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