資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業9(613)年 (30)

 章丘(しょうきゅう)の杜伏威(とふくい)は臨済(りんせい)の輔公祏(ほこうせき)と刎頸(ふんけい)の交わりを結び、共に亡命して群盗となった。

 杜伏威の年は十六、常に出撃すると前線に居り、撤退する時は殿(しんがり、軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐ)を務め、これにより杜伏威の仲間は彼を推戴して自分達の首領とした。

 下邳(かひ)郡の苗海潮(びょうかいちょう)もまた、多くの者を集めて群盗となったが、杜伏威は輔公祏を派遣して苗海潮に言った。

 「今我と君は同じく隋の暴政に苦しみ、それぞれ大義を掲げているが、力は分散して勢いは弱く、常に捕らわれの身になる事を恐れている。だがそこでもし互いの軍勢を合わせて一つにすれば、すなわちそれによって、隋を敵とするのに充分な勢力となる。そして君がもし良く主と為るなら、我はまさに謹んで従おう。しかし君自身が主になる事はできないと考えるのであれば、我のもとに来たりて命に従った方が良い、そうでないならばすなわち一戦し、それによって雌雄を決し(白黒をつけ)ようではないか」と。

 この言葉に苗海潮は恐れて、直ちにその軍勢を率いて杜伏威に降った。

 そして杜伏威は淮南に軍を転じて略奪し、自ら将軍と称し、江都留守(こうとりゅうしゅ)は、校尉(こうい)の宋顥(そうこう)を派遣して杜伏威を討たせ、杜伏威は宋顥と戦い、杜伏威は詐って勝てない振りをし、宋顥の軍を引き寄せて葦の群れの中に入れ、風上より火を放ち、宋顥の兵は皆火に焼かれて死んだ。

 海陵(かいりょう)の賊の頭目の趙破陳(ちょうはじん)は、杜伏威の兵が少ない事を理由に、杜伏威を軽んじ、杜伏威を召して彼の軍を吸収しようとした。

 そこで杜伏威は輔公祏に、趙破陣の陣の外に兵を配置して待機させ、自身は側近十人と共に牛肉と酒を持って、趙破陣の本営に入って謁見し、宴席で趙破陳を殺してその軍勢を吸収した。

訳者注

※刎頸(ふんけい)の交わり(お互いに首が斬られても、揺るがない程の固い友情のこと、生死を共に出来る程の親しい交際の例え)

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