資治通鑑 胡三省注 隋紀六 大業10(614)年 (1)

 春、2月3日、煬帝は百官に詔して高句麗を討つ事を議論させたが、数日、敢えて発言する者はいなかった。

 2月20日、詔して再び天下の兵を召集し、いくつもの道から同時に進ませた。

 2月29日、扶風(ふふう)郡の賊の頭目・唐弼(とうひつ)は、李弘芝(りこうし)を擁立して天子とし、軍勢十万を有し、自らは唐王(とうおう)と称した。

 3月14日、煬帝は涿郡(たくぐん)に行幸、一方兵士は遠征の途上で、逃亡する者が相次いだ。

 3月25日、煬帝は臨渝宮(りんゆきゅう)に至り、黄帝(中国古代の伝説上の帝王)を野外において祭り、軍に背いて逃亡しようとする兵士を斬り、彼らの血を鼓に塗ったが、逃亡する兵士は相変わらず途切れなかった。

 夏、4月、榆林(ゆりん)郡の太守・成紀(せいき)の董純(とうじゅん)は、彭城(ほうじょう)郡の賊の頭目・張大虎(ちょうだいこ)と昌慮(しょうりょ)において戦い、大いに張大虎を破り、斬った首は一万余りに上った。

 4月27日、煬帝の車駕(しゃが)は北平(ほくへい)郡に至った。

 5月23日、延安(えんあん)郡の賊の頭目・劉迦論(りゅうかろん)は自ら皇王(こうおう)と称し、大世(だいせ)と年号を建てて、軍勢十万を有し、稽胡(けいこ)と連携し内外から関中に向けて侵攻した。

 そこで煬帝は詔して、左驍衛大将軍(さぎょうえいだいしょうぐん)・屈突通(くつとつつう)を、関内(かんない→関中)討捕大使(とうほたいし)とし、屈突通を出兵させて劉迦論を攻撃させ、両軍は上郡において戦い、屈突通は劉迦論と共にその将兵一万人余りの首を斬り、男女数万人を捕虜にして軍を返した。

訳者注

※ 稽胡(けいこ)

北朝から唐にかけて離石(りせき、現在の山西省中西部)を拠点に活動した遊牧民族。


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