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太宰治「人間失格」を読んで虚しさの処方箋について考える|読書場所:アンカーコーヒー内湾店|読書記録

喫茶店に行くから本を読むのか、本を読むから喫茶店に行くのか、定かでなくなってきている昨今だが、より根源的なところに考えを巡らせば、記事を書くためといった目的に至る。


アンカーコーヒー内湾店で人々の幸福な休日を見ながら朝食を食む

というわけで、読書記録をつらつら書こうと思い、本を持ってアンカーコーヒー内湾店を訪れた。2月11日、昨日のことである。この数年、気仙沼市を数多く訪れ、方々に足を運んだ。その中で、最も数多く訪れたお店は、アンカーコーヒー内湾店だと思う。

上記の記事に漏れず、内湾を散策する際には、比較的多く訪れているお店である。時間帯はまばら。朝、昼、夜と時間帯によって僅かながらに注文できるメニューが異なるため、度々足を運んで尚、新鮮な体験ができている。

クロックマダムトーストとホヤぼーやラテ

この日は、朝食メニューのクロックマダムトースト、そして昨年の暮れより期間限定で展開されているらしいホヤぼーやラテを頂いた。何となくモーニング感があって好ましさを覚える。

穏やかな港の景観を楽しみながら食事をいただく

建国記念日となる今日、休日の朝を照らす陽の下、親子や若い恋人たち、老夫婦が行き交うテラスを前に、食事と読書をしながら過ごす。まるで映画かドラマの冒頭のような穏やかな光景が流れるものだから、何だかフィクションを目にしているかのような気分になった。

たまにはこんな時間も悪くないと思いつつ、とはいえ穏やかな光景も幸福そうな時間を過ごす人々もガラスを挟んだ向こうに在るもので、筆者とは一切関係ない世界の話である。

刹那、その事実に何とも言い難いものを感じそうになるが、すぐさま意識は手の中の本に向けられ、筆者の内心からは離れる。というわけで、本題となる読書記録に移ろうと思う。

太宰治『人間失格』を日の当たる場所で読み耽る

太宰治「人間失格」

今回読んだのは、知る人ぞ知る小説、太宰治の「人間失格」である。読んだ経験があろうとなかろうと、『恥の多い生涯を送ってきました。』の一文を知っている人は多いと思われ、それだけでも有名さの程を知られる話題作である。

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昨今は、文豪と呼ばれる人物達をモデルにした漫画「文豪ストレイドッグス」でも太宰治の名は知れ渡っており、併せて「人間失格」の名称も広まっている。

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選書の理由は例によって本の厚さであるが、そもそも「人間失格」に対して関心を持っていたこともある。異性関係については別として、人間個人を見たときに、その心中には共感できる点がある作品でないか、そう思い続けながら読む機会を持ってこなかったからである。

などと書くと本書の主人公である葉蔵と太宰治を恰も同一視しているかのような書き振りになってしまい、些か適切さに欠けるやもしれないが、さりとて多くの人々が語るように、重なる点が少ないわけでない。そのために、このような書き方になってしまったのであり、見逃して欲しいと思わずにいられない。

「人間失格」の感想を書く上での前提

さて、例によって本noteにおいて、筆者は本書「人間失格」について解説や論評のようなものをするつもりはない。出来ないと書く方が正確ではある。そもそも繰り返し書く話になるが、これだけの有名作となれば、いくらでも解説や論評が存在している。

また、時代考証や人物考証、文学的な考証なども多数行われており、わざわざ俄読者がそうした話をする価値は然程ない。というわけで、あくまで「人間失格」を読んだ感想に留めたいと考えている。

これから書く「人間失格」の感想には、一つだけ前提を置きたい。第一の手記、第二の手記、第三の手記の主人公、つまり語り手が葉蔵ただ一人である。そんな前提である。

太宰治という小説家の作風にミステリー的技法が介在する可能性は低いと考えるが、一人称小説は何ら説明なしに語り手が変わっているケースがある。何より、一人称小説は語り手を変えやすい。

「人間失格」は、無駄を省いたためなのか、何らかの意図によるものなのか定かでないが、余りにも描写しないものが多く、語り手の名前を呼ぶ描写もまたその一つだと感じている。

第一の手記、第二の手記、第三の手記の語り手には一貫性があり、同一人物でない可能性は万に一つもないと考えるが、さりとて狂人を描いていることもあり、不確実性それ自体は存在し得る。

そのため、本noteにおける感想について、語り手が終始一貫して同一人物であるという前提を置きたいと考えた次第である。はしがき、あとがきについては、同一人物であろうと同一人物でなかろうと、今回の感想に大きな影響を与えないため、埒外とする。

アイデンティティークライシスが叫ばれる昨今こそ「人間失格」に共感する人間は多いと思われる

時代が現代であれば、葉蔵なる人物は愛着障害とか依存症とか、何らかの精神疾患を抱えているとして、病名を与えられたのだと思う。しかしながら、本作が書かれた時代に、そうした具体的な診断がつくケースはほとんどなかったのだろうし、だからこそ葉蔵は余計に悩むことになったと考える。

葉蔵なる人物に共感する人間は、現代においても非常に多いと推察する。寧ろ当時よりも現代の方が共感する人間が多いくらいでなかろうか。その共感を言語化できるかどうかは人それぞれにしても、漠然と『分かる』と感じる人間は多いはずである。

考えるに葉蔵は、幼い時分に父親に対して抱いた強大な恐怖、そして果てしなく満たされない求愛心より、自身のアイデンティティーを喪失し、『人間、失格』と認めるに至るまで、何を得ても満たされず、自身という存在を世に見出せず、ただただ虚無に囚われ続けた幼子だったのでなかろうか。

アイデンティティークライシスが叫ばれる現代において、同様の虚無に囚われている人間は非常に多いと見られる。アバターという殻を被り、他人と比較し続けながら自己を否定し続け、他者を信用できず、とはいえ自身を愛せない故に自身さえ信用できなくなる現代ならではである。

葉蔵のように破綻する人間こそ少ないものの、いつその一線を越えてしまうか分からない人間は多いと見られ、自覚的にそんな自分に怯え続けながら、何とか自我を保っている人間によって形成されているのが現代でなかろうか。

などというと、誰もが日陰者であると言っているように思われるかもしれないが、そんな話をしているわけでない。誰もが葉蔵のような虚無を心に飼いながら、それでも何とか葉蔵のように壊れない人生を送っている。だからこそ「人間失格」に共感できる人間は多いと言いたいだけである。

不幸だけがそれぞれ異なるのではなく、幸福もまたそれぞれ異なる

本書、取り分け葉蔵の心中には、筆者自身共感する点が非常に多い。また、葉蔵の抱える感情や思考については、察せられる点が多く、だからこそなぜ葉蔵が本作で語られるような言動に出るのか窺い知れる。なお、そのことは、葉蔵の言動を肯定することを意味しない。

虚無感や愛への渇望は、恐らく一人の人間がこの世に生を受け、死して朽ちるまでに、何度となく頭を苛む深刻な感情だと考える。それこそ犯罪を犯したり、病んだり、死を選んだりする動機として、十分機能するほどに強い感情だ。

よく自己肯定感なんて言葉で現れる感情や思考は、元を辿れば虚無感や愛への渇望といったものに至るケースが多い。というよりも、大半はそこに至るのでなかろうか。翻って、”満たされる”ことは、自分の人生を生き抜く上で、非常に重要と言える。

だが、何を以て満たされるのか、それを理解するのは甚だ難しい。レフ・トルストイの有名な長編小説「アンナ・カレーニナ」の冒頭において、『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである』という一文がある。

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浅慮に語るならば、『幸福はどれも似通っているが、不幸はそれぞれ異なる』であるが、現実問題として、幸福も不幸同様にそれぞれ異なるのである。だからこそ、誰もが何によって満たされるかを見つけられずに思い悩むのだ。幸福が真に誰にとっても一様であるならば、誰も悩まない。

結果として、葉蔵のように虚無感に囚われ、愛への渇望に屈し、壊れ狂っていく人間が後を絶たないのである。そういう意味において、「人間失格」は虚無感と愛への渇望に囚われた人間が、どのように壊れ狂っていくのかを克明に記した物語と読めなくない。

読めなくないと書いたのは、「人間失格」がある種太宰治の遺書のように見えたり、太宰治の抱える心闇の吐露に見えたりと、物語と作者が強く結びついてしまっており、物語としての読み方とは大きく異なる読み方が並存し得るためである。

太宰治の死は自殺だったのか勘ぐりたくなる「人間失格」のある一面

尤も、本作が太宰治の遺書なり心闇の吐露なりであったならば、太宰治の死は本当に自殺によるものだったのか勘ぐりたくなるものではある。何せ度々心中に纏わる描写がなされている本作、葉蔵の手記であるが、結局のところ葉蔵の言葉、言動から窺い知れるのは生への渇望である。

葉蔵は死にたがっているように見えて、その実は死というものに憧れるだけの道化として描かれているように見えてならない。葉蔵が女性に入れ込むのは、自身の虚無を埋め、自身が現世に存在して良いのだと認められたい欲求の現れでなかろうか。

ヨシの清純さに焦がれたのは、何も乙女に惹かれたわけでなく、汚れちまった悲しみの道化と化した自身の浄化をこそ望んだが故に見える。その結果は、読者の知るところである。その後の破滅についても、その観点で読んでいくと合点の行く点が多いように見受けられる。

葉蔵が最終的に解放されたのは父親の死かもしれないし、都会からの撤退かもしれないが、いずれにしても東北に戻った後は死を望んでいる様子は見られない。時が流れ、いずれ死ぬのだと悟ったとの見方もできようが、そこに心中や自死を求めていた時分の姿はない。

「人間失格」が意味するところは、葉蔵が俗世に生きる人間たちのように自身が生きられないことを悟り(生きることを諦め)、必死に人間の振りをしてきた自分を切り離せた(父親が死にその必要性も消え、憑き物が取れた)ことを意味するのだと思われるが、だとすれば、それまでの記録のすべては生への執着と見て取れる。

自死を志す人間が、仮に自身の何某かの遺言として記すには、本作はあまりに生への渇望が描かれすぎているように、少なくとも筆者は感じずにいられない。もちろん太宰治にしても本作にしても、また彼を取り巻く多くの事象にしても、既に膨大な考証が行われている。ここまで書いた話は、筆者の妄想程度の話である。

「人間失格」は現代にとって救いの一冊になるのでないか

妄想ついでに書くのであれば、本作は現代においてある種の救いの物語たり得るように思う。つまるところ、虚しさも愛への渇望も『ただ、一さいは過ぎて行きます』の一言に集約されるのである。

生きていれば、誰もが何かに苦しむ。人生など幸せな瞬間よりも不幸な瞬間の方が多く、絶望する瞬間なんていくらでもある。あまりの辛さに死を考えるときもあるだろう。虚しさに狂い、愛欲に溺れ、壊れそうになっていくときだったあるかもしれない。

だが、どうあったところで、『一さいは過ぎて行く』のである。時間が何かもを解決してくれることはないが、時間は何かもを過ぎたことにしてくれる。狂い、壊れ、変わり果てた姿になった葉蔵が最後に得た穏やかな日々は、現代という地獄を生きる我々にとって、大きな救いになるのでなかろうか。筆者は、そう想う。


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