中島敦「李陵・山月記」が教えてくれる夢を叶えられる人間と叶えられない人間の間にある差|読書記録
前回の畑ノ沢鉱泉たまご湯の記事とは打って変わって読書記録である。
次に書く記事は3月20日に行われた気仙沼まち大学祭24についての予定だったが、不意の体調不良につき参加を見合わせたため、予定を見送る形になった。気仙沼まち大学祭24の日をよもや病院で過ごすことになろうとは露とも思っていなかっただけに、苦々しさを禁じ得ない。
中島敦著「李陵・山月記」で知る『成長』し『成熟』に至り夢を叶えられる人間とそうでない人間の差
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さて、前回の読書記録からまたもや日が空いたわけだが、これもまた体調不良による影響である。今年はどうにも体調を崩しやすく、若さが失われたものによる影響、正しく老いを感じるばかりである。
今回読んだのは、中島敦の著作「李陵・山月記」。前々回に読んだ夏目漱石「こころ」同様に、筆者の高校生時代に現代文の教科書に掲載されていた作品である。本書には「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4作品が掲載されているが、当時教科書に載っていたのは「山月記」のみである。
虎となった詩人・李徴が旧友・袁傪と一夜限り旧交を温める物語は、とても印象深く、同様に生徒時代に「山月記」と出会った経験を持つ人々ならば、『あゝ、あの作品か』と思い当たる程度に有名かつ心に残る作品でないかと思われる。
「山月記」で最も印象に残る言葉
「山月記」「名人伝」「弟子」「李陵」の4作品はどれもが読みやすく、また示唆に富んだ作品である。その示唆の数々は、人々が生きていく上で自らの人生を豊かにするために意識しておくべき訓示めいたものもあれば、道から外れぬための戒めめいたものもある。
筆者にとって印象的だったのは、やはり高校生時代において大きなテーマのように取り上げられた『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』だ。高校生時代が遠く霞むほどの年月が経ち、改めて「山月記」を読んで尚この言葉は強く印象に残る。もっとも、年を重ねて尚も成長していないからとも言えそうだが。
本作で言うところの『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』が何を意図しているかは作者のみぞ知るところだが、本作のどの内容がこの言葉にかかっているかは、恐らく以下の部分と知られる。
現代文の試験において、このような回答をしたとすれば罰点をつけられそうだ。しかしながら尊大に見える自身の態度は羞恥心であり、それは臆病な自尊心だと書かれている以上、臆病な自尊心が指しているのは、この箇所になるとするのは大きく外れていないと推察される。
この文章に続く文章において尊大な羞恥心に至る話がなされるが、それは上記箇所の具体例と言おうか深い心情を描いている側面が大きい。とするならば、ある種上記文章は尊大な羞恥心をも指していると考えられる。
雑な書き方をしてしまえば、見栄や虚勢、その裏側にある不安や恐怖をして『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』と語っているのでないかと思われる。少なくとも、筆者が雑に捉えるならば、そう考える。もっともそうした言葉が語られる内面を深く考えれば、相応の言葉を尽くす形にはなるが。
「山月記」「名人伝」で分かる成長できずに夢を叶えられないまま終わる人間の条件
一度目線を本作から外し世の中を見渡すに、昨今の世の中は、至るところ至る人々の間において『成長』が語られるようになったように見える。老いも若きも誰もが『成長』を目指し、多くの企業や団体が『成長』を志すように喧伝している。
その一方で、『成熟』が語られなくなってきている。『人生百年時代』の旗印の下で、何才になっても働き続けるのが宿命づけられたためなのか、誰もが未熟なままに年ばかり重ねるようになったためなのか分からないが、『成熟』から人々が遠離っているように見える。
「山月記」は、見方を変えれば『未熟』なままに『成長』を追い続けた人間と『成熟』へと向かう『成長』を負い続ける人間が対比された物語である。また、「山月記」と併せて掲載されている「名人伝」は『成熟』へと至った人間の物語と見ることができる。
さて、そのような見方でこれらの物語に触れると『成長』に関する示唆が得られるようにならないだろうか。つまり『成熟』に至れない誤った『成長』の道や『成長』から『成熟』に至る道が見えてくる。
李徴に照らせば『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』を抱えている人間は、どれだけ『成長』を志向しようとも『成熟』に至れず、また紀昌に照らせば、どのような『成長』の道を歩めば『成熟』に至れるのか、それらが見えるのである。
現実の世の中に目を向けると、なるほど確かに李徴のようなタイプの人間がちっとも成長できずに何を成せるでもなく年を重ね、ともすれば獣のように変性していくのが分かる。また、失敗に目もくれずに極端なまでに精度も質も高い一を重ね続ける紀昌のような人間が、飛躍的な成長を果たし、夢や希望を叶えていくのが分かる。
逆を言えば、確かな『成長』を遂げて、夢や希望を叶え、『成熟』に至りたいのであれば李徴のように『臆病な自尊心と、尊大な羞恥心』に駆られてはならないと分かる。
つまり、自分ができる人間だなどと客観性のない虚しい自尊心を持ち、上位者や周囲の人々を遠ざけ、失敗という名の恥から逃げ続ける、そんな人間に『成長』もなければ、まして『成熟』など夢のまた夢というわけである。
あの日読んだ「山月記」とあの日から時を経て読んだ「山月記」に想う差異
高校生の時分、何となしにそうした理解はできた一方で、実例を見る機会に乏しく実感を得るのが難しかった。しかし年を重ねた今、数多くの人々や共に働く人々と接する中で少なくない数の実例を目にする中で、実感を持って理解できるようになっている。
あの日読んだ「山月記」と今読んだ「山月記」に感じる印象の違いは、経験を経て深みを感じられるようになった点だと感じる。それはつまるところ時の重みであり、気付けば随分と遠くまで来たものだなどと感慨に耽ってしまうのである。
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