シェア
LittleVaaader/ファミリーヒストリー
2022年12月3日 09:43
1566年(永禄九年)尼子一族は、尼子経久の孫、尼子晴久の死からわずか五年の月日で滅亡してしまいました。このような状況を室町初期に活躍した、ご先祖さまたちは、予想していたでしょうか。さすがの佐々木道誉も、100年後の日本という国がこれほどまで、混乱の世になるとは、想像もしていなかったはずです。それでも、佐々木一族のDNAは、最後の最後まで足掻き続けました。それは、尼子再興軍を結成して、月山
2022年8月8日 07:02
ご隠居からのメール:【 出雲の鷹】南条範夫の小説『出雲の鷹』を読む。出雲の鷹とは尼子の忠臣山中鹿之助のことだが、それに対して因幡の白兎山手吉高が対照的な人物として描かれている。滅亡した尼子氏の再興軍を率いるのが山中鹿之助に対して、毛利と織田の二強との間で離合を繰り返しながら辛うじて生き永らえた因幡の白兎のような存在が山名吉高(禅高)だ。我が家のご先祖は、尼子の落人というよりむしろ山名の落人
2022年8月4日 08:23
ご隠居からのメール:【月山富田城】山中鹿之助の志は、月山富田城の奪回だった。その心意気に共鳴する落人たちが尼子再興軍を編成して月山富田城奪回に三度挑戦したが、失敗した。それでもあきらめない鹿之助に落人たちは播州上月城までつき従って、戦死するか、逃走した。鹿之助の心意気に共感する日本人は多い。だが、月山富田城にこだわったのは鹿之助の志の限界を示しているのではないか。織田信長は、天下布武という
2022年7月19日 11:41
ご隠居からのメール:【鴻池家のファミリーヒストリー】鴻池家のファミリーヒストリー小説は、次の本が浦安図書館にある。● 名将山中鹿之助:南原幹雄(読了)● 鴻池一族の野望:南原幹雄(リクエスト中)● 月に捧ぐは清き酒:小前亮(リクエスト中)noteでつい最近読んだ記事のなかでは、【より道‐28】人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差」が印象に残っている、語尾を「ですます調」にしたのは成功
2022年7月18日 08:00
ご隠居からのメール:【 商人の生き方】南原幹雄『名将山中鹿之助』のプロローグは、江戸時代中期の寛保三年、すなわち、八代将軍徳川吉宗の治下から筆を起こしている。豪商鴻池は、諸藩の蔵元や掛谷をつとめて天下第一の富豪にのしあがったが、<商人に氏素性なし>と言われるように自分たちの先祖が山中鹿之助であることを世にはばかり、百数十年間秘匿し続けていた。四代宗貞が隠居して跡を五代の善右衛門に譲ったのを
2022年7月6日 10:02
ご隠居からのメール:【山中新六の母】●『尼子姫十勇士』では、尼子スセリ姫と鹿之助との間には子は生まれていない。●松本清張『山中鹿之助』では、知和正人の遺児・小菊や隠岐清家の姪・潮姫との子はない。●南原幹雄『名将山中鹿之助』では、尼子勝久の姉・美保姫が新六を生んだ。●依田武勝『山中鹿之助』では、亀井秀綱の娘・千明が嫁し、新六を生んだ。●池波正太郎『英雄にっぽん』では、亀井秀綱の娘・千明が
2022年7月5日 11:06
ご隠居からのメール:【山中鹿之助の母】名将山中鹿之助を生んだ母は誰だろう。という疑問を抱いて、手元にある尼子関連小説で調べたところ、諸説ありで、はっきりしたことはわからない。どこの馬の骨か、鹿の骨かわからないのだ。立川文庫『山中鹿之助』 相木森之助の妻更科依田武勝『山中鹿之助』 相木美濃守信房の妻更科姫松本清張『山中鹿之助』 中老山中幸重の妻南原幹雄『名将山中鹿之助』重臣
2022年7月2日 08:41
ご隠居からのメール:【夕陽将軍】石原莞爾をモデルにした伝記小説は、杉森久英『夕陽将軍』広田弘毅をモデルにした伝記小説は、城山三郎『落日燃ゆ』と、似たような題名になっている。極東裁判では広田が絞首刑になり、石原は無罪とされたが、満州事件の主犯は石原だから、平和に対する罪を問うなら、当然、絞首刑に値する戦争犯罪者だ。二人とも、夕陽、落日と似たようなイメージが題名に選ばれているが、彼らの先
2022年7月1日 12:12
ご隠居からのメール:【尼子氏関連小説】お世話になったシェフが、大好きなワインを飲み続けたあげく、肝硬変でお亡くなりになった由、ご愁傷様だが、それも宿命かもしれない。まだ若いと思うけど、『ありがとう肝硬変、ようこそ糖尿病』というふ題名の小説を書き残して先日亡くなった高橋三千綱も七十歳になったばかりだった。戦場で恨みをのんで死ぬよりは、大酒飲んで死んだほうがましかもしれないがね。>>政久、
2022年6月25日 09:09
ご隠居からのメール:【尼子十旗】>>高瀬城が攻め落とされる年代を考えると、確かに不思議だね。1566年>>(永禄九年)「月山富田城の戦」で尼子氏が滅亡するとき、米原氏は毛>>利側についていた、もしくは、中立を保っていたのかね。尼子再興軍が>>結成されて呼応したのだろうか。このあたりは、国立図書館で「松江>>史」を読んだらわかるかな。ーー1566年(永禄九年)、「月山富田城の戦」の頃
2022年6月9日 09:12
ご隠居からのメール:「尼子の落人」通史この「息子へ紡ぐ物語」は、「点」と「点」で経験したり、聞いてきたことが、父子のメール交換によって「点」が「線」になったという前提で進行している。ところが、読み直してみると、内容がバラバラで、結び目が見えなくなっており、話の筋を追いにくい。しまいには頭が混乱してしまう。無数にいりくんだ線を整理して、面にする必要があるのではないか。そこで、わが家のファ
2022年4月9日 08:45
ご隠居からのメール:【 家訓】>>「尼子の落人」は家訓ではないが、家訓のようなものだと受けとめてい>>る。ついでにいうと、家宝も残っていない。残っているのは「尼子の落>>人」の言い伝えのみ。では、今からでも遅くない。家訓をつくろう。返信:【Re_家訓】父さんとのメールを通じて多くのものを学んでいるから、この、メールのやり取り自体が家訓のようなものだと思ってるよ。しかし、何世
2021年9月28日 12:52
ご隠居からのメール:【鴻池】 三井三菱に並ぶ存在といえば、鴻池だが、その鴻池の創始者は山中鹿之助の息子新六。したがって、われわれのDNAにもチカラはあるはずだが、オレは「頑張る」と言葉にしなかったのはなぜだろう。 ある程度、そこそこには頑張ったのだが、根底には立身出世への反発のような気分もあった。かといって、伝蔵さんや素さんのように宗教の世界にも飛び込まなかった。 先祖から受け継ぐ刀は
2021年9月13日 09:15
ご隠居からのメール:【敗軍の将】 亀井茲矩は、山中鹿之助と行動をともにしていたら、上月城かどこかで死んでいただろう。たまたま秀吉と行動をともにしていたために運がひらけた。人生にはそんな運不運の分かれ目があるもんだね。問題は肝心な時に、誰とともに行動するかだ、 元信が大倉山に登ったとしたら、通ったのは福栄村からだと思うが、そもそも元信が上下の翁山城からわざわざ大倉山までやってきたというのは単