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【260日目】: 商人の生き方

ご隠居からのメール:【 商人の生き方】

南原幹雄『名将山中鹿之助』のプロローグは、江戸時代中期の寛保三年、すなわち、八代将軍徳川吉宗の治下から筆を起こしている。

豪商鴻池は、諸藩の蔵元や掛谷かけやをつとめて天下第一の富豪にのしあがったが、<商人に氏素性なし>と言われるように自分たちの先祖が山中鹿之助であることを世にはばかり、百数十年間秘匿し続けていた。四代宗貞が隠居して跡を五代の善右衛門に譲ったのを機に、大徳寺玉林院ぎょくりんいんに先祖鹿之助の墓を建立して、その事実を公表した。

最終章になると、こんどは尼子氏の宿敵だった毛利藩から蔵元を引き受けてくれ(つまり、大名貸しの金主になってくれ)と懇望された。その折、鹿之助が落命した時、首にかけていた名刀荒井国行が鴻池宗利に返却された。

鹿之助の無念ははらされたのだろうか。小説では鹿之助の無念が新六の子孫による商人の生き方によってはらすことができたような印象を与えているが、錯覚かもしれない。現実には幕末に至り、毛利藩は莫大な大名貸しの借金を踏み倒し、鴻池の身代を衰微させたことも考慮する必要がある。

明治維新後も政府と企業(商人)との相互依存と対立は続く。平民宰相とうたわれた原敬は、「人間は、金か利権を与えなければ、そう動くものではないが、金だけでは動かぬ」という認識を示し、人に寄りそうことが大切だ」と言った。


返信:【Re_商人の生き方】

鴻池家のファミリーヒストリーも面白いね。どこかに本が残っているだろうか。しかし、山中鹿之助が亡くなって、百数十年後に先祖や血筋を公開して、それを知った、毛利氏が形見の刀のを返すから金を貸してくれてと言ってくるのも、いかがなものか。

討幕を果たした長州藩は、その後、近代国家の時代をつくり、雲をつかみかけたが、列強欧米に叩きのめされてしまった。毛利氏の故郷、広島に原爆が落とされたというのは、なにかしらの因果を感じてしまう。

ノモンハン戦争や満州事変、日中戦争。そして原敬はらたかし元首相のファミリーヒストリーを調べることで、近代史については前よりも知見を深めることができた。とくに1853年(嘉永六年)にペリーが浦賀にきてから1945年(昭和二十年)の終戦まで、全てつながっていて、じつは100年戦争だったということに気づけたことは、かなり大きよ。次は、江戸時代でも調べようかな。

お父さんの随筆「辰五郎と方谷」や「方谷入門塾」で少し江戸時代に触れていたけど、昔言葉もあり、難しい。徳川幕府260年の間にどのようなことが起きたのか。天草四郎の乱もさわりしかわからない。平和な時代がどのように保たれたのか知ることは、とても重要だね。少しづず時間をかけて学んでみよう。


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