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【259日目】:旅絵師の生き方

ご隠居からのメール:【旅絵師の生き方】

池波正太郎『英雄にっぽん』で、山中鹿之助とは対照的な人物として描かれているのは清松弥十郎という人物だ。鹿之助とともに尼子晴久に召し出され、鹿之助と共に小姓をつとめ、ついで近習になった。

しかし、鹿之助のように武勇でみとめられたわけではない。幼少のころから書がうまく、絵の才能もみとめられていた。重臣の亀井秀綱は娘の千明の婿にして、亀井家の跡継ぎにするつもりでいたが、鹿之助が横恋慕して、千明の寝間へ通うようになった。弥十郎はあきらめるしかない。白鹿城の戦の後、城下から姿を消し、行方不明になった。

数年後、京で鹿之助と再会したときの弥十郎は旅絵師だった。当時、「絵師」という職業はーーもちろん技倆にもよるが、よい職業だったといえよう。写真のない時代だったので、肖像画の注文が多い。

京の東福寺にいる尼子孫四郎(義久)を鹿之助に引き合わせたのは弥十郎だった。鹿之助はたちまち孫四郎を頭にいただく尼子再興軍の編成に着手し、弥十郎にも参加するよう誘ったが、「これからの世は、なまなかのことでは、生きて行けませぬ。槍や刀のほかに、もっと、あたまをはたらかせねば・・・・・・。さらば」といって、内庭の闇へ溶けてしまった。

旅絵師として平凡ながら無難な生涯を全うしたようだが、鹿之助のように小学校の修身の教科書でとりあげられるようなことはなかった。


返信:【Re_旅絵師の生き方】

旅絵師にしても、商人にしても、ある程度成功してメシが食えるようになるのは容易なことではない。ある程度の成功は、たいしたことではないように見えるが、「ふつう」ではないと思う。

槍や刀を持たない生き方を選んだ清松弥十郎は、鹿之助のように武勇の伝説をのこさなかったが、弥十郎のファミリーヒストリーが現代も続いていれば、その時の判断によって、命が継がれたことになる。

山中新六は武士の身分を捨て隠しながら、大阪の商人として大成功した。その血筋がやがて鴻池財閥になるわけだから、商いの世界で「天下を取った」と言っても過言ではない。

旅絵師や作家でもある意味で天下を取ることができるが、「ふつう」に甘んじている人では天下はとれないね。


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