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【243日目】尼子十旗

ご隠居からのメール:【尼子十旗】

>>高瀬城が攻め落とされる年代を考えると、確かに不思議だね。1566年
>>(永禄九年)「月山富田城の戦」で尼子氏が滅亡するとき、米原氏は毛
>>利側についていた、もしくは、中立を保っていたのかね。尼子再興軍が
>>結成されて呼応したのだろうか。このあたりは、国立図書館で「松江
>>史」を読んだらわかるかな。

ーー1566年(永禄九年)、「月山富田城の戦」の頃、米原氏は毛利側についていた可能性が高いと思う。1569年(永禄十二年)、山中鹿之助率いる尼子再興軍は、月山富田城の奪回に失敗した。

松本清張『山中鹿之助』によれば、その頃、「出雲高瀬の城主、米原綱寛が九州立花の陣から、毛利元就の命令で第一番に引き上げて来たが、三百の兵とともに岩見の浜田へ船を着けると、急に気が変わり、尼子へ寝返った」という。

寝返っていたといっても、もともと米原綱寛は尼子十旗の武将である。「松江史」を読んでチェックする必要がありそうだ。


返信:【Re_尼子十旗】

尼子氏の名が歴史に埋もれている理由は、もちろん、毛利氏に敗戦したこともあるけれど、登場人物が多すぎるからだと思う。しかも、関係性までもややこしく、ココをうまく整理して伝えることができたらいいのだが。尼子氏を中心に書くよりも、「山中鹿之助」を主人公にして武士の志を書いた方が共感されやすいかもしれないな。

同じ一族の米原綱寛が、尼子氏に寝返るのは、当たり前だ。それ以上に、毛利氏に属さなければいけない理由があったわけだが、それが、武力という、ものだったんだろうね。

図書館で「なつめの木の下」と「ノモハンの夏」「尼子姫十勇士」を予約したら、「尼子姫十勇士」だけ借りられたので、昨日から読み始めている。いままでは、記事情報でしか収集できなかったことが、フィクションだとしても物語として想像できるので、とてもイメージがしやすい。まだ、第一章の「八咫烏」だが。

<<<次回の話【より道‐81】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_山名氏

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