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【242日目】高瀬城

ご隠居からのメール:【高瀬たかせ城】

白鹿城しらがじょう(宍道湖南岸)
1563年(永禄六年)城主・松田満久:毛利勢に攻められ落城

・|月山富田城《がっさんとだじょう》
1566年(永禄九年)城主・尼子義久:毛利勢に攻められ落城

・|高瀬城《たかせじょう》(宍道湖北岸)
1571年(元亀二年)城主・米原綱寛:毛利氏に攻められ落城

・|上月城《こうづきじょう》
1578年(天正六年)尼子再興軍壊滅


小説『尼子姫十勇士』によれば、白鹿城と高瀬城とでは落城の時期が八年も違う。しかも、その間に、1566年(永禄九年)の月山富田城の落城、がある。尼子氏が滅亡したといわれるのはこの年だ。高瀬城は月山富田城の支城といわれていたが、実は尼子再興軍にとっては最後の砦だったのではないか。

しかし、その後、播州ばんしゅう上月城で尼子再興軍が敗れて、お家再興の望みが絶たれると、一部の落人たちは隠れ里の吉野村に逃げ込み、地名を吉野村から高瀬村に改称させた。

高瀬城をしのぶという意味がこめられていたのではないだろうか。ただし、これは一読者の単なる仮説であって、小説『尼子姫十勇士』に書かれているわけではない。そもそも、諸田玲子の小説は上月城の戦を記述していない。


>>時が経てば考えも変わるのかもしれないし、人格も悪い方に変わるかも
>>しれない。なので、毎日の徳の積み重ねが重要なのだろう。

ーーそれがなによりも大事なことだとは思うが、ご隠居は今や、認知症の発症をおそれる日々だ。発症すれば、人格が崩壊する。毎日の徳の積み重ねも一気に崩壊する。


返信:【Re_高瀬城】

高瀬城が攻め落とされる年代を考えると確かに不思議だね。1566年(永禄九年)「月山富田城の戦」で尼子氏が滅亡するとき、米原氏は毛利側についていた、もしくは、中立を保っていたのかね。

尼子再興軍が結成されて呼応したのだろうか。このあたりは、国立図書館で「松江史」でも読んだらわかるかな。
 

「頭が先か心が先か」について本質をつきつめたら、「心」や「精神」も「頭」なのだろうな。喜んだり、怒ったり、笑ったり、悲しんだり、涙をながしたり。人間の感情も行き着く先は、脳みそのはず。しかし、このような感情は頭で考える暇なく身体が反応する。もちろん、しっかり考えた方がその効果は増す。
 
例えば、結婚式では、今まで数十年間育ててきた子供が新たな家を持つことに、寂しさと喜びが交差し涙する。ウェディングプランナーの仕事は、その人の人生に寄り添い、集まる人たちの絆を表現する。

表現の方法はさまざまで、喋りの上手い人はスピーチでも良いし、写真や動画を集めて映像を編集しても良いし、新郎新婦が本気で挑戦してきた演出でも構わない。時には、仲違している、親子や兄弟も結婚式を通じて仲を取り持つことができる。

最近だとSNSなどで、映える写真、自分の個性を表現するようなビジュアル重視となっているが、本来であれば、家と家が結ばれ、先祖を敬い、互いの信頼を確かめ、未来(子孫)に希望を持つことが結婚式の本質だ。

それを業界が「感謝の場」など、体裁の良いことを表現しながらも「本当は自分の事をお祝いしてもらうために集まってほしいけど、正面切ってそんな事いえない」という、ふたりのキモチを代弁している。

昔は、そのあたりの役目が仲人さんだったのだが、そのような文化は、じぶんたちの時代で、なくなってしまった。日本人が大切にしてきた一族への「気遣い」や「気配り」、もっというと「思いやり」の精神が変化しながらも、なくなりそうで、なくならない文化を継承しているのだろうな。

だいぶこじれてしまった産業になってしまったが、それだけ自由主義が浸透し、自我をバランスよく押し付けあっているのが現代社会というものなんだろう。


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