見出し画像

■【より道‐81】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_山名氏

我が家の「家系図」をみると、桓武天皇から坂東武者の三浦一族につながり、平安時代に三浦義昌の妹だか、娘が、山名伊豆守の正室になったことが、記されています。

山名氏とDNA関係がつながっているわけではなさそうですが、ご先祖様は、親族関係だったのでしょうか。

源氏の新田一族の支流であった、山名氏。もともと、現在の群馬の領地を得ていた一族が、中世室町時代から、名を馳せ、遠く西国の地で勢力を広げていくわけです。いったいどんな、運命を辿ったのか。もう一度、ここで振り返ってみたいと思います。

■ 山名氏の繁栄
八幡太郎こと、源義家(よしいえ)の孫にあたる、源(新田)義重(よししげ)の子である、新田義範にったよしのりが、平安時代末期に群馬県にある山名郷を与えられたことから、山名氏を名乗るようになりました。

山名氏というと、鎌倉時代末期に活躍した、山名時氏(ときうじ)から振り返る必要があります。山名時氏(ときうじ)の母は、上杉氏で、足利尊氏とは従妹関係にあったそうです。

1333年(元弘三年)で、山名時氏(ときうじ)は、新田義貞(よしさだ)と共に、鎌倉に攻め込み、北条平氏を滅亡させ、鎌倉倒幕を果たしました。

その後、新田義貞(よしさだ)と共に京の都への上洛を果たし、建武の新政で後醍醐天皇に従事したといわれています。しかし、建武の新政では「公家一統」の方針を掲げた、後醍醐天皇の政策に反発した足利尊氏が、北条平氏の残党の挙兵を理由に鎌倉を制圧しました。

その行動に怒った後醍醐天皇は、新田義貞(よしさだ)に足利討伐を命じると、山名氏も新田氏に一時的に従いますが、足利氏と激突したときに、足利軍へ寝返りました。それだけ、後醍醐天皇は、武士のキモチをないがしろにしてしまったのですね。このとき、山名氏が新田宗家に従わなかったのは、山名時氏(ときうじ)が足利尊氏と従妹関係にあったことも一因のようです。

その後、「湊川の戦」などでも、足利軍の一員として戦い、室町幕府が開かれると、数々の武功が認められて、足利尊氏より、伯耆国の守護を任されました。

その後、出雲・隠岐の守護、佐々木(塩冶えんや)高貞(たかさだ)が、南朝側に内通していると疑われると、山名時氏(ときうじ)が討伐軍を編成し武功をあげました。そして、佐々木(塩冶)貞高の代わりに、出雲・隠岐の守護を任されるようになったのです。

こうなると、面白くないのが、佐々木一族で権力をもっていた、佐々木道誉です。政治的に出雲・隠岐の守護を奪い返し、佐々木一族と山名一族の対立関係がここで生まれることになりました。

その後、「観応の擾乱」で山名時氏(ときうじ)は、足利尊氏の弟、足利直義ただよしや、足利尊氏の実子で、弟の足利直義ただよしの養子、足利直冬ただふゆに最後まで従属し室町幕府に反抗していましたが、同じ足利直義派閥であった、斯波氏が2代将軍・足利義詮よしあきらの「管領」になると、室町幕府に帰参しました。

その時の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、他家より、多くの不満の声があがったといわれています。


■六分の一殿と明徳の乱
鎌倉時代末期から、南北朝の動乱を駆け抜けた山名時氏(ときうじ)は九人の息子を設けて、山名一族は繁栄していきます。

山名時氏(ときうじ)が亡くなると、長男の山名師義(もろよし)が家督を継ぎますが、五年後に亡くなります。すると、山名師義(もろよし)の息子たちが、まだ幼いという理由で、山名時氏(ときうじ)の五男である、山名時義(ときよし)が家督を継ぐことになりました。

なぜ、五男の山名時義(ときよし)が、家督を継いだのか、よくわかりませんが、不満を持っていたのは、山名時義(ときよし)の兄たち、次男と四男です。

しかし、山名時義(ときよし)は、三代将軍・足利義満の細川氏の勢力を衰退させるために実施した「康暦こうりゃくの政変」の恩賞で、所領をあえられて、全国66ヶ国の内11ヶ国を領有して、「六分一殿」の通称を付けられる程の勢力を誇りました。

山名時義(ときよし)は、家督を継いでから、13年後に亡くなりますが、そのタイミングで、足利義満が山名一族の勢力を衰退させる策略をはたらかせます。

足利義満は、家督を継いだ、山名時義(ときよし)の息子、山名時熙(ときひろ)が調子に乗っているということで、山名時義(ときよし)の兄たちと、本来家督を継ぐはずであった、山名師義(もろよし)の息子、山名満幸(みつゆき)に、山名時熙(ときひろ)討伐命令を下しました。

山名時熙(ときひろ)は追放され、一族内の問題は解決したと思われましたが、足利義満は、山名時熙(ときひろ)を赦免しゃめんしました。

その、判断に怒った、山名満幸(みつゆき)と叔父たちは、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃します。これが、「明徳の乱」です。

山名満幸(みつゆき)と叔父たちは、幕府軍に敗戦し数々の領地を取り上げられ、幕府軍に味方した山名時熙(ときひろ)兄弟には、但馬国、伯耆国、因幡国が安堵されました。


じぶんの頭の中で何とか整理しながら書いていていてもよくわからない、山名氏一族の内紛。「明徳の乱」ですが、長谷部氏のご先祖様たちは、この戦では、山名満幸(みつゆき)と叔父たちに属したことで、一族の勢力を多く失ったとあります。

個人的には、この敗戦から再起を図るために、長谷部氏は、大内氏や佐々木氏との縁を深めていったのではないかと思っています。

中世の西国の地の争いは、大変なものでした。そんな戦に巻き込まれながらも、なんとか生き延びたご先祖様。当時の悲しみは、計り知れないものですが、630年後の現代にも長谷部氏を名乗るじぶんが存在しています。

我がファミリーヒストリーのなかで、「明徳の乱」も大きなターニングポイントだったのではないかと思います。


<<<次回のメール【244日目】ヤタガラス

前回のメール【243日目】尼子十旗>>>


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?