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【276日目】: 出雲の鷹

ご隠居からのメール:【 出雲の鷹】

南条範夫の小説『出雲の鷹』を読む。出雲の鷹とは尼子の忠臣山中鹿之助のことだが、それに対して因幡の白兎山手吉高が対照的な人物として描かれている。滅亡した尼子氏の再興軍を率いるのが山中鹿之助に対して、毛利と織田の二強との間で離合を繰り返しながら辛うじて生き永らえた因幡の白兎のような存在が山名吉高(禅高)だ。

我が家のご先祖は、尼子の落人というよりむしろ山名の落人と称するべきではないかという気もするが、山名氏は滅亡せず、徳川幕府の旗本として明治維新まで存続しているから、山名の落人とは言えない。

かつて日の下六十六州の十一を従えて『六分の一殿』と呼ばれた山名氏は、丹後、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐、美作、備後、紀伊、山城、和泉などの守護を兼ね、応仁の乱の頃は、山名宗全が西軍の大将として東軍の大将細川勝元と並べ称されるほどだったが、吉高の時代にはかなり落ちぶれて、但馬と因幡の守護代をつとめたり、免じられたりする程度の旧勢力になっていた。

因幡の主城は鳥取城だったが、守護代の武田高信に奪われて、なすすべもなく、手をこまねいているところへ、山中鹿之助の率いる尼子再興軍のおかげで奪回することができた。しかし、毛利の大軍が押し寄せてくると、尼子再興軍を城から追い出し、自らもあっけなく、毛利氏に服属した。

その後、鳥取城は豊臣秀吉軍による兵糧攻めに屈して、城主毛利経基は自刃、織田氏による天下布武への道を拓いた。


返信:【Re_出雲の鷹】

やはり、我が長谷部家が衰退していったのは、「応仁の乱」からはじまる下剋上が大きな原因のようだね。人が人治める体制を長く続けるのは難しいことなんだろうな。室町幕府や徳川幕府、大清帝国もつづいたのは、だいたい260年くらいだ。

その後、戦国期が100年続く。これも、ペリー来航から太平洋戦争終戦の100年戦争と同じくらい。すると、世の中は、360年周期くらいで時代が大きく変わっているのかな。現代のスタートを1945年とすると、2200年くらいまでは、いまの世の中、資本主義が形をかえながらなんとか続くかもしれないね。

その後、2300年くらいまで再び戦乱の時代となることを妄想する。長谷部信連は鎌倉時代に勝利を手に入れて御家人となった。戦国期の長谷部元信や大戦中の長谷部與一は、敗れた組織に属した。

人の世は、武力をもって成っているが、武力衝突がおきないように知恵をしぼっているのが現代というところか。


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