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「他者」について

「不図浮かんできた」という言葉を、最近よく口にする。これは、おそらく「I think」という能動的な行為を行ってはおらず、ラテン語の「methinks」という、ある意味では中動態的(起源は受動性)を成しているということの表れなのではないかと。

「他者」とは何であるか及びに、「主体」とは何であるか。また「他者」そのものではなく、「他者」と「主体」の関係、「他者」と「主体」が成立するためには、真に成立するためにはどのような状況が必要になるのかなど、諸々浮かんできた疑問について「methinks」していきたいと思う。

この「他者」に関する記事は、おそらく様々な方の意見を参考にする。(それはオマージュであるのか?)参考や引用が時々出てくるかもしれないが、現状ワタシが知っている時点で、ワタシ自身の「オリジナル」の考えであろうものを書いていく。これからより本を読めば、似たような意見が出てくるかもしれないが、もしそのようなものを見つければ、ここに記したいと思う。


「理解されえないもの」

この「他者」については、いってしまえば、極端に傷つくことを回避するための概念かもしれない。ワタシごとになるが、暴力をふるうことも、振るわれることも、怒ることも、怒られることも、さらには叱られることも、然ることも、心の底から大嫌いである。そのこともあって、徹底的に「傷つく」ことを避ける「他者」について考えを、ここでは記すことになるだろう。


「他者」とは何であるか。これについては、ある程度固まっている意見があるので、書く。「他者」とは「理解されえないもの」ではないだろうか。

「他者」とはもちろんのこと自身のことではない。つまるところ、「他者」とは自分自身とは全く異なる者、同じ部分を持たない者、理解されることがない者ではないだろうかと考えられる。

これは、「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論」という本の影響だろう。其処には、このような文章がある。

だれもが自分が望む「友」を欲しがるが、その「友」とは理想化された自分自身でしかない。だから「友」は、人それぞれに、好き勝手に解釈されることになる。(西島佑、2020、56)

「他者」という分類は、「友」「友達」という人物には適応され得ない。なぜならそれは「他者」ではなくて、「自分」であるからだ。「理想化」「解釈」という恣意の暴力によって鋳型にはめられた、一つの「自分自身」の像なのだ。

「他者」とは、自分自身ではないというのは、重要な考えであるだろう。それは、ある意味で「無理解」のもとに成り立つもの、或いは、排除、排斥、異質なものという認識に近いものだからだ。

「他者」そのものとして認められるということは、ある意味では暴力から逃げることである。しかしそれは一つの暴力でしかなく、また別の暴力からは逃れることは出来ない。

またその暴力に関しても、引用する。(完全にオリジナルな意見というものは、難しい。ワタシ一人でこのようなことを考え及んだわけではないからね。)

他者について考えたり、述べたりするのは、あくまで自分が理解するところの他者であり、他者そのものではない。〔中略〕すべての関係性は暴力である。(西島佑、2020、34-35)

人間の関係、理解は、パズルではない。形の違ったパズルのピースが、見事に他のピースに当てはまることによって出来上がるパズルではない。関係、理解はそれほど生易しいものでもない、非暴力なものでもない。

シャボン玉だ。延々を永遠に膨らみつづけるシャボン玉。それが、「他者」に対する理解、或いは人間関係そのものであり、人間の言語上でのあらゆる活動である。というか、人間の活動が、いわば「暴力」そのものであるとも考えられる。

シャボン玉は膨らみつづける。それはまた別のシャボン玉さえも吸収し、依然大きくなり続ける。またそれは、消えたり、割れること無く、お互いに侵食しあって、大きくなり続けることもあるだろう。

そこに現れる「他者」とは、もはや真の意味の他者ではなく、「像」へと変化した「自分自身」であるだろう。そこに現れる「他者」は、「理解可能」な者へと貶められ、鋳型にはめられ、「理解」という暴力によってボコボコにされる。しかしその「暴力」を、心地よいものだと、快いものだと人間は考える。それによって、「独り」ではなくなる(ような錯覚を覚える)からだ。

「他者」とは、無理解の先にある。何物にも考慮されず、触れられず、理解されず、或いは蔑まれ、無知という枠にはまっている。それこそ、「他者」として受け入れられるということである。理解されると、人間は、「他者」として、その人自身として、可能性や偶然性、固有名詞(西島佑、2020)、変容可能性などを備えた未知のものとして存在として、受けいれられることはありえないだろう。

人間のほぼあらゆる関係を形容する言葉、その何れかにおいて理解された場合、「他者」、笛吹に誘われるかのように、どこかへ消えてしまう。その意味で、人間は、「他者」ではありえない。人間が人間と関わる限り、そこに真の意味での「他者」は現れないかもしれない。存在できるとすれば、自分が想像することも出来ないような、いるかどうかも分からないような人間である。それこそが、真の意味での「他者」である。

出会ってはならない。そこから、「他者」に暴力をふるってしまうかもしれないからね。「無理解」「未知」以外の理解を当てはめたなら、そこでまさいく「他者」そのものが消えてしまう。そこに現れるはずの可能性の大部分が失われる。(完全に失われるわけでは無い)

繰り返す。他者とは「理解されえないもの」である。いや、「もの」であるかすらどうかもわからない。何もしらない、何も分からない、それが、(決して固定的ではない、可能性や偶然性を尊重する意志を込めた)固定的な意味での「他者」ではないだろうか。

さて、次の記事では、「主体」について書こうかな。




今日も大学生は惟っている。


引用文献

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房


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