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【哲学】人間が恐れているのは、一般名詞の記述が揺らぐこと

西島佑さんの『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学」という本には、「個人・固有名」という章があり、友敵関係の二項対立の脱構築との関連して、一般名詞と固有名詞についての考えが述べられている。

この中で、私はあることを学んだというか、気づくことが出来た。

それは、人間の恐れるもの

一般名詞の記述が揺らいでしまうこと

なのではないかということだ。『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学』という本を読んでいて、実はこの気づきが、一番衝撃的だったりする。

では、人間が恐れる「一般名詞の記述が揺らいでしまうこと」とは、とどのつまりどういったことを意味するのだろうか?

ここでは、その意味と考えを展開していこうか。

この一般名詞とは、固有名詞の対立するものとしての、一般名詞だ。この一般名詞は、なんら難しいものではない。なぜなら、この一般名詞が、ある意味で常識や凝り固まった見方であるからだ。

一般名詞としては、「鳥」「水」「木」「火」「鉱石」「人間」「光」「星」などが挙げられる。しかしこれらは、あることを無視してしまっている。

それは、一般名詞の中にある「固有名詞」だ。「鳥」と言っても、全ての鳥を扱えるような表現であるわけではない。中には、人間が「鳥」だとは思えないような鳥がいるかもしれない。つまり、一般名詞としての「鳥」は、非常に歪曲した見方・捉え方であるかもしれないのだ。

他にも、自分の中の「友達」という言葉。これも一般名詞である。自分が思っている、一般名詞としての「友達」の中には、自分が知りもしなかったような、或いはもう「友達」とは思えないような人間がいるかもしれない。これは、先ほどの「鳥」の例と一緒だ。

一般名詞として「友達」(自分の中の)が、その一般名詞の境界線を超えるとき、あるいは一般名詞と固有名詞とのボーダーラインの上に立つ時

私たちは、とてつもない不安や恐れを感じるのかもしれないというのが、私が、この本から読み取った考えだ。


これこそまさに、「一般名詞の記述が揺らいでしまうこと」なのである。

自分が当たり前だと思っている、事象や、人間、物、あらゆるものに付いている「一般名詞」。これが、その一般名詞とは異なる性質を持つ時、もしくはその特徴に気づいたとき、人間は恐怖を覚える。


友達だと思っていた人間が、裏切る。

弱いと馬鹿にしていた人間が、強くなっている。

あると信じていたものが、無くなっている。

美味しいを思っていた料理が、不味かった時。

続くと思っていた日常が、突然終わってしまった時。


これらは全て、「一般名詞の記述揺らぎ」に他ならなない。

固有名詞が、一般名詞にとって代わりそうなるとき、自分が信じていた一般名詞と、その一般名詞を当てはめていたあらゆる事象が、自分の知らない固有名詞に成るとき、それは人間が言いようもない不安に駆られる時に違いないと、幾度も繰り返しておこう。

これは、これから人間が、人生の中で感じる恐怖や不安の感じ方の二つあるうちの一つだと、私は考えている。そうであったと思っていたはずのものが、そうではなかった、「一般名詞の記述が揺らいでしまうこと」。人間の不安、恐怖、或いは怒りの源泉。

自分が不安を感じたとき、

「あぁ、これは一般名詞の記述が揺らいでいるのだなぁ」と思うと、多少は冷静になれるかもしれませんね・・・。



今日も大学生は惟っている。


参考文献

西島佑.2020.「友」と「敵」の脱構築 感情と感情と偶然性の哲学試論.晃洋書房


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