みおうたかふみ

歌人集団「かばんの会」所属(2020.10~)|短歌のことを書いています。

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最近の記事

かばん2024年4月号評

短歌の「評」は、たしかに批評ではあるけれども、ぼくは、どちらかというと、良いなと感じた歌を紹介したいゆえに書かれるもの、と考えるようになってきました。ということで、かばん2024年4月号評です。 朝市はとうに廃れて噴水の周りに散っている風の粒  木村友 「廃れて」「すたれて」という音が頭の中でリフレインし続ける。どこかで聞いたリズムだと思って。思い当たる方、教えてください。ぼくが、これ、と思い出した歌がありました。でも「廃れて」ではなかった。 口紅といふ制度さびれて三度

    • かばん2024年3月号評

      歌誌「かばん」に掲載されている歌から、気になる歌をピックアップして、自分なりに読み解いてみよう、という試みに近い「評」を書いています。 今回は、2024年3月号から。 たかがチョコされどチョコなり工場の製造ラインの勉強したり  水野蛍 チョコレート工場が舞台なのですが、甘くておいしいチョコレートが、工業製品であると意識すると、硬くて冷たいイメージがわいてくるのが不思議です。「勉強したり」の「り」を文語と考えるのか口語と考えるのかによって、意味合いが変わってきそうなのですが

      • かばん2024年2月号評

        結果的に4月になって満開という桜。季節どおりなのか、やっぱりどこか違うのか、わからないのが普通なのでしょうか。「かばん」の2024年2月号から、気になる歌を選んで、評(感想)を書いていきます。 太陽と星の周期を知ることは暮らしにとって必要である  壬生キヨム カレンダー、暦のことだと思うのだけれど、もっと大きな原理のようなものが暮らしには欠かせないようにも読めてくる。ふと、杉﨑恒夫さんの次の歌を思い出した。 ティ・カップに内接円をなすレモン占星術をかつて信ぜず 杉﨑恒夫『

        • かばん2024年1月号評

          「かばん」の1月号は、恒例の全員2首。名刺代わりの歌がずらりと、筆名の五十音順に並びます。2024年1月号評を書いてみました。例によって、全く自分の好みでの選歌ですが、よろしくお願いします。 鉄【くろがね】の硬き鏃【やじり】を内蔵【はらわた】に打ち込め弓手【ゆんで)、剛力【ちから】を込めて    青木俊介 青木さんは剛力な歌い手なんだということを改めて感じる一首。ずぶりと肉体に突き刺さる鏃は、なにかの比喩であったとしても、突き刺さった感覚は、重く響くものであることが実感で

        かばん2024年4月号評

          かばん2023年12月号評

          かばん2023年12月号評を書いてみました。 ちなみに、「かばん」では6月号と12月号は特集号で、全員8首の指定があり、すでに発表した作品でもOKとなっています。 孫ふたりイオンモールの回廊を駆けだし上の児が転倒す  江草義勝 なにげない日常の風景なのだけれど、場所が「イオンモールの回廊」であることと、転倒したのが「上の児」だという場面を切り取ってきたことに反応してしまう。イオンモールの「回廊」が幾層にもなっている風景は、時間の断面図を見るような気がします。 「知る」は

          かばん2023年12月号評

          かばん2023年11月号評 5首選

          かばん2023年11月号評を書かれている雛河さんが選んだ歌の中から5首を選んで、二人の評を比較したりしながら、自分なりに歌の世界に近づいてみたいと思います。 まずは、雛河さんとぼくが共通して選んでいた2首について。 ほじくったあとのキウイの皮くらい頼りない助け舟だけど出す  岩倉曰 「頼りない助け舟」が「ほじくったあとのキウイの皮」であるところに、二人とも反応しています。 でも、その助け舟は無駄じゃない、という読みで共感しています。結句の「だけど出す」という、やむにや

          かばん2023年11月号評 5首選

          かばん2023年11月号評

          かばん2023年11月号の評を書いてみました。なかなか多くの歌を選べないのですが、評を書きながら、改めてそれぞれの歌をかみしめたいと思います。 長袖のカッターシャツにはまだ早く九月に足りないものは直線 森野ひじき 「九月に足りないものは直線」という印象的な結句。まだ暑い、残暑の九月。でも、そろそろ「長袖のカッターシャツ」を意識しているのが「まだ早く」という言葉から香ってくる。夏なのか秋なのか、どっちつかずの九月には、確かに「直線」が足りないのかもしれない。 長崎の夜景を

          かばん2023年11月号評

          かばん2023年10月号評

          かばん2023年10月号評を書いてみました。自分の主観的な基準で選んでいます。歌誌「かばん」には12月号に10月号評が掲載されますので、そちらもぜひ。 なのにふと土曜日は来るなつかしい人と知らない今を過ごして 柳谷あゆみ 「なつかしい人」と温かい気持ちで過ごしてきたのに、土曜日は当たり前にやってきて、「なつかしい人」との時間は終わる。しかも、「なつかしい人」と過ごしたこの時間は、お互いに「知らない今」だった。懐かしい日々も「知らない今」の連続だったかもしれないと、輪廻的な

          かばん2023年10月号評

          かばん2023年9月号評

          かばん2023年9月号の歌評を書いてみました。 辻井伸行のピアノ鍵盤にバッタ大量発生跳ねる跳ねた跳ねた /ゆすらうめのツキ ピアニストの辻井さんの躍動的な動きが、視覚的に捉えられていて迫力のある歌になった。「跳ねる」で一つ目の音が聞こえたあと、「跳ねた跳ねた」で速力が上がっていく曲調まで表現した。しかも「大量」なので、複雑なメロディ。聴覚にまで及ぶ歌。 「はじめての友だちアナタ」嬉しくてやがてかなしいジャミダのことば /ユノこずえ おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉 

          かばん2023年9月号評

          かばん2023年8月号評

          かばん2023年8月号評を書いてみました。 地下足袋がムカデのように蠢いてぞろりぞろりと練り歩く街 /Akira 「神田祭二〇二三」というタイトルの一連。神田祭は4年ぶりの開催。心も体もひしめき合うような祭りを心待ちにしていた人も多いのだろう。地下足袋が生き物のようにいっせいに動き出す神輿の足元。眠りから覚めるような蠢きを、流し撮りの写真のように捉えた。 鬼灯の花を燃やした夜明けて失くした夢が流砂の底に /藤野富士子 安部公房の『砂の女』をふと思い出す。盂蘭盆会の象徴でも

          かばん2023年8月号評

          こころをみせる短歌とは

          さて、初心に戻るため、短歌を始めたころに読んでいた短歌の入門書をもう一度読み始めている。 そのうちの一冊が、東直子著『短歌の不思議』(ふらんす堂)。 「視心伝心」という一説に、短歌を詠む心得として、次のような一説がある。 どちらかというと、「自分をよい人に思われたい」ぼくは、これは厳しい指摘だな、と感じていた。というか、無理じゃないかと。 それでも、短歌を作り続けることで、自分を変えることができるのではないかと、ずっと思っていた。 ところが、いま、『短歌の不思議』を読み

          こころをみせる短歌とは

          『短歌の時間』を読んで

          東直子著『短歌の時間』(春陽堂書店 2022.3)を読みました。公募ガイドの「短歌の時間」には、選者が東直子さんでしたので、2020年から何度か挑戦したけれど、採用には至りませんでした。 『短歌の時間』の中のコラム「選びたくなるうた」で、東さんは、選ばれる歌のポイントを「新鮮」と「共感」という観点から解説されています。 「新鮮な感動」というのは、よくわかる。例えば、次の歌。 この歌を公募ガイド本誌で読んだ時の衝撃は忘れられず、『短歌の時間』を読んで再会したときも、あらた

          『短歌の時間』を読んで

          ポエジーの壁

          短歌を読んでいるとき、もやもやすることがある。その短歌が促している伝えたいと思われることになんとなく共感しつつも、でも、それがどのような観点で評価されているのか理解できないときがあるのだ。そのもやもやは、短歌を詠もうとするときも、立ちはだかってくる。ぼくはそれを、「ポエジーの壁」と呼ぶことにした。 ポエジー、詩情と解説されて、戸惑うことが多い。なんとなくイメージすることができても、その「ポエジー」がどこからどこまでなのか、はっきりわからない。自分にはポエジーが備わっていない

          ポエジーの壁

          31文字で百字分の表現力

          ちょうどぼくが短歌を作り始めたころ、話題になった天声人語がある。俵万智さんが国語教育について語ったという内容だ。 高校生の国語の教科書で文学が選択科目になるという。個人的な体験になるが、ぼくが学校で学んだ国語では、文学であっても「文章を読むチカラ」を強調されてきたように思う。でもそれは、それなりに意義があるもの、と考えていた。 この天声人語は、次のように続く。 この俵さんの指摘の意味がなんとなくわかってきたのは、短歌の実作をはじめて3年たった今になって、である。例えば、

          31文字で百字分の表現力

          短歌を「読む」ということ

          松村正直さんの『踊り場からの眺め』を読み終わった。読んでいる最中から、短歌についての僕の考え方が、まさに音をたてて変わっていくのがわかった。 現代短歌に触れて、自分でも作ってみて、歌評も読んでみて、素朴に感じていたのは、その「わからなさ」だった。ときに「飛躍」として評価され、ときに「比喩」としてひょうかされ、ついには「よくわからないが」と前置きされて評価される作品たち。その魅力を確かに感じながらも、果たして、この「魅力を確かに感じ」ていることが、僕の中に実在しているのか、は

          短歌を「読む」ということ