31文字で百字分の表現力

ちょうどぼくが短歌を作り始めたころ、話題になった天声人語がある。俵万智さんが国語教育について語ったという内容だ。

「実用的な文章が読める力は必要だろうけど、そんなものを国語の教材としてえんえんと教えるとは」。文学界9月号に歌人で元国語教師の俵万智さんが書いている。「言葉や表現の豊かさに、あえて触れさせない意地悪を、なぜするのだろうか」

朝日新聞 天声人語 2019年8月17日

高校生の国語の教科書で文学が選択科目になるという。個人的な体験になるが、ぼくが学校で学んだ国語では、文学であっても「文章を読むチカラ」を強調されてきたように思う。でもそれは、それなりに意義があるもの、と考えていた。

この天声人語は、次のように続く。

俵さんによれば、短歌は31字だが百字分でも千字分でも伝えられる。一方で百字で百字分を伝えるのが契約書。それを国語で教えるのは「言葉を、現実を留めるピンとしか見ていない」

朝日新聞 天声人語 2019年8月17日

この俵さんの指摘の意味がなんとなくわかってきたのは、短歌の実作をはじめて3年たった今になって、である。例えば、拙作にこのような短歌がある。(今と当時と筆名が違います)

ひざかかえ平たい足と対話する小箱の中に出せない手紙

東京歌壇・東直子選 2019年10月13日

薄暗い部屋の中でひとり、膝を抱えて座っている。あなたに書いた手紙を出そうか、やっぱりやめようか、ずっと悩んでいるのだ。しらずしらず、目の前に見える自分の小さな平たい足に、その悩みを問いかけている。平たい足は応えない。その手紙は小箱の中にずっとしまわれたままでいる。

作者による解題

短歌の読みは自由であるけれど、あえてぼく自身が頭に描いた場面を書き出してみた。これで132文字。俵さん、短歌は、ぼくの拙い歌でさえ、少なくとも百字分の表現力がありました。

短歌を読むときに求められることのひとつは、その歌がうったえてくる場面や感情について、どの様に展開できるか、ということだと思う。批評は、そうして展開したものを、できれば誰にでも理解できる丁寧さで、言語化することだと感じている。

短歌を「読んで」いくために、ぼくは、頭の中に刺さっている「ピン」をどうにかして外さねばならなくなったようだ。

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