かばん2023年8月号評

かばん2023年8月号評を書いてみました。

地下足袋がムカデのように蠢いてぞろりぞろりと練り歩く街
/Akira

「神田祭二〇二三」というタイトルの一連。神田祭は4年ぶりの開催。心も体もひしめき合うような祭りを心待ちにしていた人も多いのだろう。地下足袋が生き物のようにいっせいに動き出す神輿の足元。眠りから覚めるような蠢きを、流し撮りの写真のように捉えた。

鬼灯の花を燃やした夜明けて失くした夢が流砂の底に
/藤野富士子

安部公房の『砂の女』をふと思い出す。盂蘭盆会の象徴でもある鬼灯(ほおずき)見送った「夢」が天に帰らず、砂の底から出られない。もどかしい、というにはあまりに出口のない状況に言葉を失う。

空腹の時のココアが甘すぎてそんな優しくしなくていいよ
/屋上エデン

どっちかというと、ココアに怒っていると思った。空腹を少し和らげるために飲んだココアがどっしりと甘いとき。甘さ=優しさ、なんて誰が決めたのよ、とつぶやいているようだ。優しさが過剰になれば、それはかえってつらいものとなる。

花を見るやうに火を見て 動かないままの右手を置いてゆけない
/森山緋紗

打ち上げ花火を見ているのだろうか。右手を体の後ろ側に支えるように置いて、目線は上方向に向いているのか。大輪の花火が火の粉になって散るまで見届けて、まだ動けない。儚げで、でも強い意志。そんな微妙なこころもちが、読めば読むほど響いてくる。

ピーマンの肉詰め作るヘルパーよ彼女はどんな恋をしたのか
/千春

ピーマンの肉詰めはちょっと手の込んだ家庭料理だと思う。黙々と作業するヘルパーの彼女の背中を見ながら、彼女にも心弾むような恋があったはず、と思いを巡らせてみる。薄暗い他人の台所に、おだやかな午後の日差しが静かに満ちているようだ。

系統番号346番と97番 バスの質量
/大甘

「バス 346番」で検索すると、「那覇西原線」がヒットした。「バス 97番」では「琉大線」がヒット。両方とも那覇バスターミナルを出発する路線バスだ。バスに表示された番号が、元素記号のようにそれぞれの質量を表しているように思える。バスターミナルが世界の循環を表している法則のようだ。

うつ伏せの花の周りで逆光の君とコインを投げ合って 裏
/土居文恵

「うつ伏せの花」って百合?ハルジオンもうつ伏せかな。花の周りということなので、花壇のようなイメージもある。陽を背負った「君」の顔ははっきり見えない。「わたし」にとっては(密かに)真剣勝負のコイン投げ。結果は「裏」。「わたし」は恋をあきらめたのかもしれない。

おばあちゃんあなたは展望台だから小さい私に目を細めたね
/嶋江永うみ

「展望台だから」という受け止めは、やはり遠い存在である気がする。近くにいる「おばあちゃん」はわたしには遠くて、じっと見られてしまっているような。読み手の心の持ちようで、様々に読み方が変わる歌だと思う。

二十二時二十分まで待たねばと烏丸口で居場所を探す
/雨宮司

京都駅の様子を知っていると歌の背景が分かる。烏丸口は、座るところはないし、出れば広々とバスターミナルが広がっているだけだし、吹き抜けのコンコースで立っているしかない。居場所探しは終わらない。

もうここが世界の果てと決めたので電話を鳴らされても取りません
/岩倉曰

ぼくは電話が苦手なので、電話する前に脳内で何回も練習する。電話が鳴ったら、数回セリフを脳内再生してから、受話器を取る。だから、「世界の果て」と決めたら、ぼくも電話に出ないかもしれない。でも、ぼくは、電話が鳴ったら取ってしまうかも。

碧空に手話をてわたす石像のアリアアベマリア 図書館の翼【ウィング】に
/井辻朱美
 ※【 】はルビ。翼に【ウィング】のルビ
外国の図書館だろうか。図書館の脇にあるマリアの石像が空に向かって手を差し伸べているよう。「アリアアベマリア」その手が歌っているかのように何かを伝えようとしている。

休日で区切ってあらたに繰り返し組み立てていくわたしの天地
/柳谷あゆみ

休日に組み立てなおされていく「わたし」は、先週までの「わたし」と天地が逆になっているのかもしれない、などと想像してしまう。休日の区切りは大切で、そこでリセットできなければすり減ってしまう。日常は、そんなことの繰り返しでなんとか維持できているのかもしれない。

愛のない着地をさせて引き返す休館日だった雨の図書館
/雛河麦

月曜日以外に、毎月一度、書架整理等の都合でお休みする図書館が一般的。そんな日かも。雨の日に、いそいで図書館に行ってみたら、全くひとけがない休館日に「着地」。コンクリートが黒々と雨に濡れ、入口は、わたしを突き放すように硬く閉ざされている。やむなく引き返す。やるせなさが直接伝わってくる。ごめんなさい。

ちかちゃん、とよびくるる母よわたくしは貴女の子より三つ歳上
/大黒千加

ふしぎに心に残る歌。「ちかちゃん」と「貴女の子」は同じ人だと読むと、「母」の中の「わたくし」と実際の「わたくし」に三つの年齢差があることになる。ここをどのように読むかで受け止めるメッセージが様々に変わる。それがこの歌の魅力となっている。

からっぽのエレベーターの口開き今日も最終退出者なり
/小野とし也

施設に勤めていて、施設管理を担当しているとよくわかる場面。鈍色に光っているエレベーター。もうこの施設には自分しかいないことが分かっているときほど、いいようのない。。あぁ、考えるのはよそう。そう、淡々と。

はいはいを覚えた人はいいじゃん気のすむまでさせておく
/土井礼一郎

「はいはいを覚えた」子、ではなく「人」。仕事を覚えたての人なのだろうか。最初のうちは、とにかく、自分のできることで進むしかなく、それを温かく?見守っていただける雰囲気を感じた。気のすむまでやって、どうにもならなかった時に、声をかけたい。

自らを愛おしまずに働けば望みの有無を知られずに済む
/小野田光

「自らを愛おしまずに」働いている姿は、献身的に映るのだろうか。働き者と評価され、自分の居場所を確保する。自分の時間を差し出して、自らを愛おしむ望みの時間を過ごすための糧を得る。矛盾したような生き方を感じている横顔が寂しい。

釣り針が目に入ったと口ぐちに人は鏡を探しはじめて
/木村友

釣り針がまぶたに刺さったことがあるからわかるけど、自分ではどうなっているのか全く見えない。痛みもさほどなく、何が起こっているのかが分からない。この歌では、「口ぐちに人は」とあるので、そうした人が複数いるはずで、お互いの顔を教えあったら鏡を探す必要がないのに、みな鏡を求めている。そこが怖い。

ひとくちで食べようとして落下した芯まで白いソフトクリーム
/土井みほ

状況が想像できてしまう上の句。落下したソフトクリームの上部をながめて「なんで芯がしっかりしてへんねん」と思いつつ、そうやね、中までソフトクリームなんやから、はじっこにあんこがないタイ焼きやないねんから、と悟ってしまう。真理に迫る歌。

どの道も曲がって曲がって曲がったら戻れるけれど戻らないよね
/齋藤けいと

『赤毛のアン』を連想させる。碁盤の目になっている通りだと、例えば左に左に、曲がって曲がって曲がったら、元の通りには出られるけれど、戻った場所も時間も、曲がる前とは違う「場所」。現在位置も見失っているのかもしれない。


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