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かばん2024年2月号評

結果的に4月になって満開という桜。季節どおりなのか、やっぱりどこか違うのか、わからないのが普通なのでしょうか。「かばん」の2024年2月号から、気になる歌を選んで、評(感想)を書いていきます。

太陽と星の周期を知ることは暮らしにとって必要である  壬生キヨム

カレンダー、暦のことだと思うのだけれど、もっと大きな原理のようなものが暮らしには欠かせないようにも読めてくる。ふと、杉﨑恒夫さんの次の歌を思い出した。
ティ・カップに内接円をなすレモン占星術をかつて信ぜず 杉﨑恒夫『食卓の音楽』

どれほどの雨樋たちを従へて山手線は走るのだらう  松澤もる

線路を挟んで低層の家が立ち並んでいる。激しく降る雨が屋根を伝って、線路に伸びている雨樋から流れ落ちている。そこを分かつように走る山手線。「従へて」としたことで、暮らしそのものが統べられていく感情を垣間見る気がしました。

ビヨンド・ザ・絵空事 だが現実は嫌いな人に嫌われている  屋上エデン

好きな人に嫌われていると気落ちするのは「絵空事」なんだから、気にせず行こうぜ、とポジティブに捉えてみた。確かに、この人はちょっと、と自分が思う人から嫌われているような気がする。

振り返るくらいならありがとうくらい言えよってもうビームが出そう  藤本玲未

いや、もうビームは出てますよ、と思わずつぶやいてしまった。ちゃんと「ありがとう」が言える人になろう。ぼくのイメージは、ビームはオデコから発射されているイメージです。

道ならば必ず先へつながって 自動車専用道路に至る  雨宮司

いわゆる、ただごと歌なのだと思うのですが、すべての道が自動車専用道路につながっている、というのが、車社会が極まっていく姿とリンクして、批評性を感じさせます。

当面のメルクマールは空にあるハレー彗星2061  有田里絵

約76年周期で地球に最接近するハレー彗星。直近の来訪は1986年でした。夜空を見上げていたけれど、どこに彗星がいるのか、結局分からなかった思い出があります。で、次回は2061年。世の中がどのようになっても、時代の節目を感じられるハレー彗星時間が、当面の目印(メルクマール)だと思うと、大きな時間単位に心が広がる気持ちがします。

しづかだね終はりの見えぬ戦争や汚職伝ふるテレビを消せば  大黒千加

この感覚はぼくも感じていて、短歌にしたかったけどうまくできなかった。テレビを消せば画面は真っ黒。音もなく、何もかもが無かったことのようで怖いです。

くつ下の片方だけが三つある朝にみじかい秋を吸いこむ  大甘

どんな状況でくつ下が片方だけ、しかも三つなのか。歌の中には「秋」というキーワードだけが手がかり。あわてて準備して出ていった家族が残したものかもしれない。陽だまりに残されたくつ下を想像して、秋の陽を感じてみたい。

殴り合う彼らをただただ遠巻きに見ている今は自習の時間  雛河麦

学校で喧嘩をしている男子生徒を、止めるすべもなく遠巻きに見ている生徒たち。作中主体は、その様子を更に離れた場所から、別の世界の出来事のように見ている、という二重構造になっています。自習の時間だから先生は来ないのか。ただただ、短くて長い時間が過ぎていきます。

シュレッダーの途中でしたというような我が指をしんと眺めれば朝  土居文恵

朝目覚めたときに何かを思い出したのだろうか。視界に入ってきた指先は、放心したようにスラリとしている。それを「シュレッダーの途中でした」と言い切るところに、土居さん独特の表現力がひかる。さびしい朝の病者であるはずが、日常の些細なひとこまに置き換えられているところが魅力的。

純白のまりあの胸にのせられて図書館棟が生み出す雲塊  井辻朱美

井辻さんの歌には、時々、図書館が登場して、マリア像がセットになっていることが多い印象。純白のマリア像が図書館の近くにある。公立図書館ではなくて、学校の図書館、おそらく大学図書館なんだろうなと思う。知の象徴としての図書館とマリア像のたたずまいを想像してみる。

親戚にアイスを買えと渡される用途が限定された補助金  岩倉曰

補助金って、使い道が限定されている場合が多いし、2分の1補助とか、3分の2補助とかで、少しは自己負担が生じるイメージ。自腹を切らざるを得ない状況で、アイスを買うことが強制されている状況。困惑した手のひらに握られているお金を想像してしまう。

録画でしか見れなくなったひとたちが歌えばしじまの波寄せてくる  柳谷あゆみ

おそらく反戦歌。「しづかだね終はりの見えぬ戦争や汚職伝ふるテレビを消せば  大黒千加」と呼応しているようにも思える。動画が伝えるその歌声は繰り返し繰り返し静かな夜に、波のように胸に迫ってくるものなのだ。

みづからの殻をかかへてやや暑い十一月を歩くひとたち  森山緋紗

暑い11月。上着を脱いで小脇に抱えて歩く人たち。その様子を、自分の殻を抱えているととらえた観察がするどい。その「殻」は、自分の抜け殻なのか、それとも、社会を渡り歩いていくための仮面なのか。歩く人たちは、どの人も足早に感じる。

たとえば遠い長崎が胸に棲みついて離れぬような心を持てり  とみいえひろこ

なぜか心に残る歌。「長崎」であることで、異国のような遠さと、故郷のような近さを感じて不思議だ。自分らしくいられる街を心の中に持ち続けることで、人は生きていけるのかもしれない。

いつまでも戦勝国は明るくてしずかな場所はありませんか?  土井みほ

ヨーロッパにいると、日本でいるよりも戦争を間近に感じるのではないか。ドイツ在住の土井さんの、イギリスでの歌。ドイツにも日本にもない明るさがイギリスにあり続けるというのなら、それはそれで怖いような気がしてきます。

黒塀の傍らに盛り塩 きれいだね 叶わぬゆく末の輪郭は  小野田光

時々、老舗旅館とか仕出し店などで見かける盛り塩。うすく同心円が外側に描かれているときがあり、この歌の下の句はそのことをとらえているのかもと思いました。それを「叶わぬゆく末」と読み取る。ここが美しいというかおしゃれです。

花もなく紅葉も散らぬ夢枕紫式部が立ってくれたら  入谷いずみ

大河ドラマ「光る君へ」大変面白く観ています。源氏物語のエピソードも所々に散りばめられているようで、紫式部の描いた物語の普遍性を感じています。その紫式部が現れただけで、それはもう、物語以外の何物でもないような、そんな気持ちになる気がします。

今回は以上です。編集をしていた昨年度は、前号評を事前に見ることができて、前号評をじっくり読む癖がつき、とても勉強になりました。なので、4月号での前号評が今からとても楽しみです。


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