『短歌の時間』を読んで

東直子著『短歌の時間』(春陽堂書店 2022.3)を読みました。公募ガイドの「短歌の時間」には、選者が東直子さんでしたので、2020年から何度か挑戦したけれど、採用には至りませんでした。

『短歌の時間』の中のコラム「選びたくなるうた」で、東さんは、選ばれる歌のポイントを「新鮮」と「共感」という観点から解説されています。

世界に新鮮な感動を与えるために詩の言葉は存在している。ちょっと大げさな言い方ですが、私はそう思っています。

東直子『短歌の時間』春陽堂書店 「選びたくなるうた ―「新鮮!」と「わかるわかる」―」

「新鮮な感動」というのは、よくわかる。例えば、次の歌。

おそろいのエプロンの料理教室サランラップの外側にいる/芍薬 

『短歌の時間』「理」

この歌を公募ガイド本誌で読んだ時の衝撃は忘れられず、『短歌の時間』を読んで再会したときも、あらためて衝撃を受けました。考えたこともなかった観点。サランラップ越しにぼやけて見えるおそろいのエプロンの人たちがフワッと浮かんでくる景色。それは初めて見た景色でした。

その上で、東直子さんの評に「料理にとって自分たちは「外側」である」という指摘が、じわじわと染みてきました。さまざまな場面で、ぼくたちは「内側」と「外側」に知らず知らずに分けられている現実があり、歌によって改めて気づかされる。それを、新鮮な感動と呼ぶのかもしれません。

でも、でもです。こうした観点を持ち合わせて、しかも三十一文字におさめるチカラが、誰にでもあるのだろうか。

そこで前掲の東さんの言葉をもう一度ふりかえる。「詩の言葉」とある。言葉は誰もが使い得て、発すればそれは詩(歌)となる。だから、大丈夫なんじゃないか、と。そう思うことにした。

なので、今日もせっせと短歌を投稿し、ボツの山に石を積む。歌のチカラを信じながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?