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かばん2023年10月号評

かばん2023年10月号評を書いてみました。自分の主観的な基準で選んでいます。歌誌「かばん」には12月号に10月号評が掲載されますので、そちらもぜひ。

なのにふと土曜日は来るなつかしい人と知らない今を過ごして 柳谷あゆみ

「なつかしい人」と温かい気持ちで過ごしてきたのに、土曜日は当たり前にやってきて、「なつかしい人」との時間は終わる。しかも、「なつかしい人」と過ごしたこの時間は、お互いに「知らない今」だった。懐かしい日々も「知らない今」の連続だったかもしれないと、輪廻的な寂しさが漂う。

バスといふ水槽揺れてもうすこしながくひかりを見てゐたかつた 森山緋紗

いつも、編みかごの中に入ったような気持ちになるバスであったが、「水槽」に例えるのが秀逸。この手があったか。キラキラと、あるいはゆらゆらと揺らぐ夜の街の光りを、ずっと見ていたい。埋めようのない喪失感をあえぐように表現した。

そっぽ向いて窓辺で星を映してるいつまでも捨てられないテレビ 山田航

「捨てられないテレビ」の画面は、電源を入れても何も映らない、と思いきや、星空が映り込んでいる。それをテレビが自分で映し出しているように感じてしまう。なぜか、自分の瞳にも、その星空が映っているのを感じて、「捨てられないテレビ」を大切な誰かの瞳のように感じてしまう。だまったままの想いを密かに持ち続けるかのようです。

早起きも早寝もうまくできなくて夜中に熱い緑茶を淹れる 木村友

ぼくは昼寝が苦手な子だった。寝つきが悪くて困ったけれど誰も助けてくれません。寝付けない夜はつらい。それを吹き飛ばすような気持ちで「熱い緑茶」を淹れる。とてもポジティブで気持ちいいです。

ソフトクリーム掲げて撮った青空の青さもほんのすこしだけ嘘 夏山栞

青い空に白いソフトクリーム。とても映える写真です。でも少し嘘のような、現実から少し距離がある気がする、という微妙な心の揺れが美しい。
スマホやカメラのレンズを通してみたものは、ひょっとするとすべて虚構かもしれない。逆に虚構の中に少しだけ真実があるような気がします。

顔だけが好みの女そのように林檎飴のつややかさを愛す ソウシ

林檎飴をあまり食べたことがないのですが、林檎部分はあまりおいしさを感じないのでしょうか。甘い部分は林檎の表面に施された、鮮やかでつややかな「飴」の部分。「顔だけが好み」というストレートな自分の気持ちを「愛す」気持ちが、歌として立ち上がっています。

気が抜けたソーダ水にも少し前までは弾ける時間があった 島坂準一

年齢が高年齢になってくると今しか見えなくて、もう駄目だなぁと思うことが増えてくるのですが。どんな「ソーダ水」にも「弾ける時間」があったのだから、ぼくも弾けていたんだなぁ。ノスタルジーだけではなくて、若くて弾むような時間へのあたたかい視線も感じます。

寂しさが私の上に満ち満ちて私の砂を黒く濡らして 千春

涙と書かずに涙を描く、という歌い方に惹かれました。「私の砂」がどの部分かはわからないけれど、涙で濡らしたところが「黒く」なる、この「黒」がとても深い心の奥底をのぞかせるようで少し怖い。「満ち満ちて」というどうしようもない寂しさが胸を突きます。

ジェノグラムつくづく眺め広がってしまった海を逃れられなく とみいえひろこ

ジェノグラムとは家系図のことだそうです。自分が見えている家系にもその続きがあって、それを可視化していってしまうと、無限に広がる蜘蛛の巣のように人と人が時間を超えて無限につながっていく。その中の一人としてがんじがらめに絡めとられてしまいそうです。

延々と湘南新宿ラインにて揺られ続ける入道雲だ 青木俊介

湘南新宿ラインはJR東日本のいろいろな路線を相互に乗り入れて首都圏を走る列車の名称だそう。長い海岸線を電車に揺られて走る車窓には、ぽっかりと浮かんだ入道雲。さわやかな夏の風景も、どこか、惰性に彩られた退屈な風景として映ってくる不思議な感覚です。

パタリロを知らぬこどもに健康にいいと教えるクックロビン音頭 本田葵

パタリロ、アニメ見てました。そして、唐突に始まるクックロビン音頭。あぁ、だめです。頭の中で回り始めました。恐るべしクックロビン音頭。何も知らない子どもに「健康にいいと教える」、この罪深い感じもパタリロのテイストを感じさせます。

大切な家族の有無に関わらず人間らしく好きな寿司ネタ 岩倉曰

「人間らしく好きな寿司ネタ」あなたなら何ですか?ぼくは何だろう。「人間らしく」というところが罪悪感を連れてくる不思議さ。社会的倫理観としての家族の姿を引き合いに出して、人間らしく生きることを問い直すような寿司ネタ。悩ましいですね。

一秒後 虹を見つけることになる茅の輪をくぐった先の星空 雛河麦

「茅の輪」をくぐった直後、どうして空を仰いでしまうのでしょう。星空がみえる夜に見える虹はムーンボウ。月の光で浮かび上がる虹。そんな幻想的な景色が出現する一秒後と、ありふれた日常の健康を祈っている一秒前とが、茅の輪という空間で、ねじれたようにつながっている。その瞬間をとらえた歌なのです。

ポケットの空いた穴からサラサラと銀行員Kは零れてしまう ちば湯

乾いて薄い存在の「銀行員K」氏。砂のような存在感が、後ろ髪を引かれるように気になってしまいます。「ポケット」が何を象徴しているかが、わからなかったのですが、ポケットのどこかに引っかかるほどの粘着力もなく零れてしまうさまは、どうも自分のことではないかと思えてしまいます。

ユニコーンの大臀筋ほど美しく雲がねじれて窓を離【か】れゆく 井辻朱美

ユニコーンの美しく引き締まった大臀筋、のように雲が動いていく、という様子を窓越しに見ている。作中主体は、椅子に座っているのか、ベッドに横たわっているのか、動かずにそれを見ている。夏の日でしょうか。美しい描写にため息が出ます。

沖の空に雲はならんだそれぞれの時間を持ったまま一列に 大甘

これも夏の風景。広々とした海が目の前に広がっている。「沖の空」は海の「沖」でもあり、沖縄の「沖」でもあるのでしょう。順々にふわりと解けていく雲。「それぞれの時間」は、いとおしくも無情に続く歴史のようでもあります。

泣きながら自己紹介をするひとの眉間の不発の花火いとしい 土居文恵

この「ひと」は、なぜ泣いているのだろう。悔し泣きなのか、別れの寂しさなのか。作者はその泣いている人の眉間に注目する。そこには紛れもなくこの「ひと」の強い意志が宿っている。でも泣いているので、その強い意志は「不発の花火」なのです。それがいとしい。深い人間洞察を感じる歌。

年齢が素数になると日常の些末なこともほぼ割り切れぬ 有田里絵

思わず大きな数の素数を探してしまった。1から100までの間に、素数は25個あるということで、20代、30代で各2つ、40代で3つ。50代も2つ。なんと10代は4つ。割り切れないことばかり起こる日常を素数基準に考えると、美しく自立している感じがする。新たな発見です。

古ぼけた楽譜をひらいては閉じて子どもらしい子どもになりました 沢茱萸

そういえば、目的のない行為をあまりしなくなってしまった。開いて閉じるを繰り返す無限の時間の中にこそ、子どもは住んでいられるのかもしれないと思いました。古ぼけた楽譜の背景に、古いピアノが見えてきて、広がりが感じられます。

なおすたび少し早まる時計からたまに出てくる川底のすな 蛙鳴

前述の「銀行員K」を思い出してしまう「川底のすな」。ぽろぽろと落ちてくる砂は、勝手に進んでしまう時計に追い越されてしまった時間の粒なのでしょう。

それなりに大人になった僕たちは違う星から交信できる 百々橘

大人になった、といっても、どこからが大人なのか、あいまいな気がしませんか?この歌は、「違う星から交信できる」ようになると「それなりに大人になった」ことなんだよと告げています。言葉も、生態も違うかもしれない異星人どうしが意思疎通し合う「交信」。ギリギリのラインで「それなりに」理解し合っているような感じが共感を呼ぶ気がします。

バーガーを一人の部屋でかぶりついて距離とは人の心が作る 生田亜々子

歌を選んでいると、選んだ歌と歌が呼応しているように感じます。この歌、「それなりに」の歌となんとなく呼応している気がする。一人でバーガーにかぶりついているだけで、なぜか社会との疎外感を感じてしまう。遠い星に置き去りにされてしまっているかのように。でもそれは、想像の距離感、「人の心」が作ったものだという。一人ひとりが星なのです。

いつの日かことばが枯れて耳たぶの色で話せるようになるため 小野田光

そして言葉はいつしか枯れてしまう。なんと、連作みたいな流れ。耳たぶの微妙な色の変化で、意図することを感知できるようになれば、交信も孤独も関係ないぞ、と。中島敦「名人伝」を思い出します。「不射の射」。究極の会話は話さないこと。その方が、誤解もなく、いさかいもなくなりそうですが、どこまでも音のない世界でもあります。

テ・イ・キ・ア・ツ まぶたの裏をギラギラの三日月すぎてゆく砂嵐 土井みほ

そんなことを考えている耳に、でかい声で「テ・イ・キ・ア・ツ」。びっくりした。ハッとします。「ギラギラの三日月」は、作者にとっての何かを例えたものだと思えるけれど、強烈な印象とともに、なぜか、今自分はやっぱり生きていて、吹き荒ぶ砂嵐の中で、こうして立っているんだと、我に返るような気持ちになります。

10月号も楽しかったです。


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