ポエジーの壁

短歌を読んでいるとき、もやもやすることがある。その短歌が促している伝えたいと思われることになんとなく共感しつつも、でも、それがどのような観点で評価されているのか理解できないときがあるのだ。そのもやもやは、短歌を詠もうとするときも、立ちはだかってくる。ぼくはそれを、「ポエジーの壁」と呼ぶことにした。

ポエジー、詩情と解説されて、戸惑うことが多い。なんとなくイメージすることができても、その「ポエジー」がどこからどこまでなのか、はっきりわからない。自分にはポエジーが備わっていないのだろうか。ポエジーが備わっていないとすると、詠むことも、また、読むことも難しいのだろうか。

少し長い引用となるが、その答えの入口でなないか、と思われる指摘が、松村正直『踊り場からの眺め 短歌時評集2011-2021』にある。

武田百合子の『ことばの食卓』の中に「枇杷」と題する話がある。作者が枇杷を食べている所に夫の武田泰淳がやって来て、珍しく枇杷を所望する。指や手に汁をだらだら垂らしながら枇杷を食べたのち、彼が言ったのが「こういう味のものが、丁度いま食べたかったんだ。それが何だかわからなくて、うろうろと落ちつかなかった。枇杷だっだんだなあ」という台詞である。
この台詞が非常に印象的なのは、幸福そうな食べっぷりのためばかりではない。私たちは普通、食べたいものがあって、それを食べるのだと思っているが、その逆に、何かを食べているうちに、それが自分の食べたいものだったことに気づく、ということがあるのだと教えてくれるからだろう。(中略)短歌もまた、このようなものであって欲しいと思うのだ。

「言葉のパズル」松村正直『踊り場からの眺め 短歌時評集2011-2021』六花書林

短歌を詠んでいくうちに、また読んでいくうちに、わかってくることがある。このことをひとつの根拠にして、それぞれの短歌の中に、また自分の中にあるポエジーを捜し求めていくことにする。

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