こころをみせる短歌とは

さて、初心に戻るため、短歌を始めたころに読んでいた短歌の入門書をもう一度読み始めている。
そのうちの一冊が、東直子著『短歌の不思議』(ふらんす堂)。

「視心伝心」という一説に、短歌を詠む心得として、次のような一説がある。

心を曝すことを恥ずかしがっていては、作品はできません。自分をよい人に思われたいと思っているうちは作品ができません。自分を美しく見せたいと思っているうちは作品はできないのです。

東直子『短歌の不思議』ふらんす堂 「視心伝心」

どちらかというと、「自分をよい人に思われたい」ぼくは、これは厳しい指摘だな、と感じていた。というか、無理じゃないかと。
それでも、短歌を作り続けることで、自分を変えることができるのではないかと、ずっと思っていた。

ところが、いま、『短歌の不思議』を読み直してみると、この指摘には続きがあった。それが、つぎの部分。

心を曝すことを恥ずかしいと思い、自分の醜い部分と向きあい、美しいものを求める気持ちを忘れてはいけないと思います。それはもう、断固として。つまり、感情の露呈と抑制とのバランスが重要になります。

東直子『短歌の不思議』ふらんす堂 「視心伝心」

なんでもさらけ出すことがよいのではない、恥ずかしいと思う気持ちは持っていていい、ということ。それなら、ずっと思っている。普段の生活の中でも。それを、短歌という形で表明するのだからなおさらなのであって、当たり前のことなんだ、と。

「感情の露呈と抑制とのバランス」にずっと悩みながら短歌を詠んでいっていいよ、と、それを知ることが、初心に戻る一歩目となった。

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