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かばん2023年12月号評
かばん2023年12月号評を書いてみました。
ちなみに、「かばん」では6月号と12月号は特集号で、全員8首の指定があり、すでに発表した作品でもOKとなっています。
孫ふたりイオンモールの回廊を駆けだし上の児が転倒す 江草義勝
なにげない日常の風景なのだけれど、場所が「イオンモールの回廊」であることと、転倒したのが「上の児」だという場面を切り取ってきたことに反応してしまう。イオンモールの「回廊」が幾層にもなっている風景は、時間の断面図を見るような気がします。
「知る」は雨「分かる」は水と考える 暑さ寒さのあわいの秋に 屋上エデン
上の句は、なにかを表しているのだろうと思いつつ、ぼくに知識がないので、謎解きのよう。「知る」「雨」でググる。
数々に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる
この歌が引用された「コトバンク」解説に、「身を知る雨」は涙のことであるとあった。秋は、言葉にならない感情が行き交う季節なのかもしれないですね。
参照)コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E8%BA%AB%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E9%9B%A8-636952
初雪が降りそうだねと冬の午後スケート靴に話しかけたり 藤野富士子
本格的な冬の到来を待ち望んでいる歌。雪がふり始めたらスケートの季節ということなのだろう。自分のスケート靴がある、というのは地域性を感じさせますが、厳しい冬を楽しもうとする温かい色を感じさせます。
抹茶だけ粉末足して変えている甘くて苦い人になりたい 天原一葉
連想したのが抹茶パフェ。それでも抹茶が足りなくて、さらに抹茶を足す。抹茶には、高級感とか特別な思いとか、なにかが凝縮されているけれども、さらっとした印象があります。抹茶だけを増やして自分を変えたいという、ふとした寂しさのようなものも感じます。
屋上に登るはしごに触れる夢僕らはみんなイカロスだった 本多忠義
愚かな行為を戒めるイカロスの話ではあるのだけれど、あこがれのような熱量を「イカロス」は持っている気がするんです。閉ざされている屋上への出口に架かるはしごは、禁断の世界の入り口なのでしょう。そこに惹かれてしまうのは、なぜなんでしょうね。
生きるのに向きと不向きがあるように噴霧器をわがつたなく使う 土井礼一郎
噴霧器は、霧状に出すのが難しい印象がある。コツが必要な器具を使う時、人生を考えてしまいます。いったい自分は、何をするのに向いているのか。説明書どおりにしても上手くいかないことばかりで、そこが「生きる」ことと呼応するようです。
常夜灯みたいな月がついてくるひとりぼっちになりたい3時 ミラサカクジラ
月が追いかけてくるのは、月が遠くにあるからなのだそうです。「常夜灯みたいな月」が、自分を必ず照らしてくれるのだけれど、ひとりになりたいときは、その光から離れたい。午前3時。真夜中。誰もいないはずの時間なのに、月はほっておいてくれない。ちゃんと見ていてくれるようです。
どてかぼちゃおたんこなすのだいこんあし相当おいしそうな人です 有田里絵
喧嘩するときの常套句がならんでいます。「かぼちゃ」「なす」「だいこん」どれも野菜です。視点を変えて「おいしそう」と受けることで、すべてを明るくひっくり返してしまう力を感じます。
そのひとの晩秋おもう残されてざらついた布のようなさびしさ とみいえひろこ
畳み掛けるような「さびしさ」。洗いざらしのタオルのようなバシバシした感じが、晩秋の乾いた冷たい風にさらされている。あまりの寂しさに身が震えます。「そのひと」とは誰のことだろう。これだけの寂しさを感じるのに、冷たく突き放す印象はない。「残されて」が不思議な作用を及ぼしているようです。
大停電の日の星空を誰もみな忘れぬように焼くバーベキュー 山田航
北海道で起きたブラックアウトを、やはり思い出します。真っ暗となった空に不思議な力を持たされたように浮かび上がる星々。その恐ろしさと美しさを忘れないように、ぼくたちはバーベキューをする。娯楽の代表ともいえるバーベキューが祈りの場に感じらます。
枯野といふほどにもあらぬ夢の間にニホンノウサギ見つとおもへり 松澤もる
芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を踏まえているのだと思うのだけれど、束の間の夢に見たのが「ニホンノウサギ」であることの謎。ほとんど見かけない野ウサギをどのような気持ちで見つめたのだろうか、心に残る。ふと、ドイツの土井さんが、公園でリスを見かけるという話を思い出しました。
しねーっとシャウトかまして入って来る急行をやり過ごす震えて ちば湯
電車が通過する時、何とも鋭く重い音がする。確かに。それを「シャウトかまして」と表現されているところに思わず身震いする。結句に置かれた「震えて」という言葉が確かな手ざわりとして伝わってきます。
確かわたしは拡がってるのに縮みゆくからだのようななにかが 柳谷あゆみ
「なにか」が何かはわからないけれども、得体のしれないような、でも自分の中にもその「なにか」が確かにある気がして、通り過ぎることができない歌。歳を重ねると身体は縮んでいくのに、「わたし」という自意識は膨張するばかりで、困ってしまいます。
喫茶店だった空き地にほろほろと帰化植物の育つ五月は 小川ちとせ
かつて喫茶店だった更地。そこに、五月になると雑草が生えてくる。まず生えてくるのは帰化植物。日本の固有種が生えてこないというところが暗示的です。「ほろほろ」というオノマトペが乾ききった更地を連想させます。
気づいたら水位が上がり中州から出られなくなったような、暮らし 生田亜々子
なにげなく暮らしているはずなのに、もう、抜け出せなくなっているような危機感、もしくは孤独感。安穏と暮らす日常は、実は危険と隣り合わせかもしれないという警句のような歌に震えます。
花と肉、カロリーが好き、恋人につないだままのコンセント抜く 藤本玲未
恋人とずっとつながっていたコンセントを抜いても平気な心境。花と肉とカロリーに並んでの「恋人」。すぱっとした別れの歌と読みました。潔さを感じます。
飲み会を断ったけどいつまでもその言い訳を再生してる 大池アザミ
これ、よくわかる。飲み会だけではなくて、いろいろな出来事で、迷いながら、あるいは遠慮しながら下した決断の言葉は、いつまでも、脳内でリフレインしてしまいます。
立ち枯れの向日葵かぜに揺れている 青空想うアンダルシアの 上田亜稀羅
アンダルシアといえば、やはり、、
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり /永井陽子「モーツァルトの電話帳」
を思い出します。アンダルシアと向日葵は強烈な陽射しをつれてくる不思議な言葉です。
わたしよりわたしを愛する人がいる世界中国境正常化 小野田光
下の句の下部に漢字が並べられて、錨のように感じられます。国境という見えない境界線の「正常化」という言葉に込められた「自由」。それは、わたしと、「わたしよりわたしを愛する人」とが自由に手をつなぐことができる世界なのでしょう。
半日で消える手紙をしたためる 憂鬱色のメイクパレット 土居文恵
お化粧を「手紙」と表現したところがとても印象的です。今まで気がつかなかった表情を、文字通り読み取る気持ちです。手紙だったんだ。あなたに見せる最後の私は憂鬱色の私なのよと、その時、告げているのですね。
羽田へとゆくとき見ゆるガスタンクうすいみどりの風を纏って 森山緋紗
土地勘がないのですが、海沿いの道なのでしょう。工業地帯のコンビナートに並ぶ巨大なガスタンクは、なぜか薄い緑色ですね。春がやって来るのでしょうか。ガスタンクと青空の隙間を縫う風をこのようにやわらかく表現できるものなのか。優雅というべきか繊細というべきか、一瞬にして染められてしまう歌です。
錆びついたロケット台は夢をみるかつての戦地へ落ちてく星の 土井みほ
これは、反戦歌ではないかと。「ロケット台」「戦地」。第二次世界大戦のドイツ。それはもう70年以上前の深い傷跡。「かつての戦地」は西方。その地平線に星は落ちていく。いまのヨーロッパの状況を思いながら、この歌を読みます。
汗だくで教えてくれたパイナポー体操変なものは強くて 百々橘
「パイナポー体操」検索したら、ありました。まだ見てません。。でも、見てしまったら、きっと頭から離れないようなインパクトなんだろうな、というのがこの歌からはっきり伝わってきます。パイナポー体操、気になるー。
以上です。「評」といっても、ほんとに、読んでみてどうだったか、感覚的なもの、感想の域を出ていないのですが、それぞれの歌の世界を噛みしめています。
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