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かばん2024年4月号評

短歌の「評」は、たしかに批評ではあるけれども、ぼくは、どちらかというと、良いなと感じた歌を紹介したいゆえに書かれるもの、と考えるようになってきました。ということで、かばん2024年4月号評です。

朝市はとうに廃れて噴水の周りに散っている風の粒  木村友

「廃れて」「すたれて」という音が頭の中でリフレインし続ける。どこかで聞いたリズムだと思って。思い当たる方、教えてください。ぼくが、これ、と思い出した歌がありました。でも「廃れて」ではなかった。

口紅といふ制度さびれて三度目の春の一千枚目のマスク/睦月都『Dance with the invisibles』

噴水がさびしく風に散らしている水の粒が「風の粒」と表現されているのが、上手いと思いました。短歌っぽい造語は、気持ちよく心に響きます。

カネゴンといふ怪物を笑ひたるゆとりがあつたむかしはよかった  遠野瑞香

カネゴン。知ってますか?ぼくは知っていますが、再放送だった。ググってみると、カネゴンの初出は、1966年放送の「ウルトラQ」なのだとか。ぼくはまだ生まれてません。。昭和の時代のすべてが「ゆとり」と捉えるのは、いろいろ考え方があるとは思いますが、現在よりも時間の流れ方が緩やかだったとは感じます。キャッシュレス時代に、カネゴンはどういう存在になっていくのだろう、などと考えてしまいます。

もしかして泣いてましたか弁当の蓋の結露の向こうの玉子  岩倉曰

この短歌を知ってしまうと、もう、弁当の蓋を開けるときにドキドキしてしまうじゃないか。玉子焼き(とは限らないが)が、弁当箱の中で泣いているかもしれない。何が悲しかったのか。暗かったのか。暑かったのか。それとも、もうじき食べられてしまうのが怖かったのか。ふわっと自分の職場の屋根が開けられて、覗き込まれたとき、ぼくは玉子かもしれない。

東寺駅にずっと夕暮れどうやって大事にすればいいか分からず  とみいえひろこ

近鉄京都線の東寺駅は、京都駅の次の駅。東寺駅付近は、南北方向に走っている近鉄京都線。東寺駅の西側には東寺の五重塔が見える位置関係。ホームからは見えないかもですが。何を「大事に」したいのか、具体的には、読み取ることはできないのですが、低い京都の街並みで長く続く美しい夕暮れ時を持て余すような、どうしようもない悲しみを感じます。

つちのなか銅鑼がひと鳴りする立春それからドラムロールが続く  雛河麦

春が来たので起きろーという勢いの銅鑼の音が地面の中で響き渡って、驚いたり目が覚めたりして春が土から芽吹いてくる、という流れが視覚的に捉えられて楽しい。それで終わらず、ドラムロールが鳴り響き、じゃーんと言わんばかりに花が咲くのかな。ずっと細かく振動し続けている春は、それだけで生命力がある気がします。音の気配と春の心地よい気候が感じられます。

おたがひにおいてゆかれる夢をみてそれを話して辿りつけない  森山緋紗

どこに辿りつけないのだろうかと思うと、距離を縮めたいと思いあう二人が、お互いの相手に「おいていかれる夢」を見てしまったことを、話してしまったことで、知らず知らずに相手を責めてしまう気がして、相手の心に辿りつけないようになってしまった、ということなのかなと思いました。夢の中のように。

ふたりして毎日見てたコンビニが建つ予定地を建つまで見てた  柳谷あゆみ

更地に何が建つのかな、といつも感じてしまう。二人で毎日、更地を見ていたのは、友達同士のような気がします。それも通学途中で。更地が予定地になり、予定地にコンビニが建つまで、1年くらい?2年ぐらいでしょうか。ちょうど、高校生活とか中学生活の3年間を巡って過ごす時間のような気がします。このあと、ふたりはどういう未来を歩いているのでしょうか。

きょうもだれかの悲しい日ゆえ草原を走れば飛蝗の子は弾けとぶ  土井礼一郎

飛蝗(バッタ)昆虫のバッタ。悲しい感情に突き動かされて草原を走る。自分だけじゃなくて、知らないどこかの誰かも、今日はきっと悲しい日のはずだから、ひとりじゃないと、自分を慰めながら。でも強い感情とともに踏み込んだ足もとで、小さなバッタが、驚いたのか、飛び出してくる。それを見て走るのをぼくは止めた。悲しさはそのままだった。

初夢をごっそり盗まれたあとの空き家に置かれたクレーンゲーム  沢茱萸

この「空き家」にも以前は賑やかなお正月があって、家族がそれぞれの初夢の話をしたのだろう。今は、玄関表がくりぬかれたように解放された建屋の中に、無造作にクレーンゲームが置かれている。そんな景色が見えました。可愛いけどちょっと安っぽいぬいぐるみが詰まっている本体の様子として、ささやかではあるけれども生きていたはずの暮らしが、あまりにも悲しい姿に変換されています。

ほんまやなあ、ええなあ、そやなあ、かなんなあ。なあなあ言ふよ母との電話  大黒千加

関西弁で上の句を音読すると、とんとんとんとリズムを刻むのが心地よいです。標準語に比べて、語尾に特徴があるのは方言の特徴だと思います。そこに独特のリズムであったり、ニュアンスが込められていて、詩的な余韻も生まれるのかもしれません。

行儀よく並んでトイレを待っているあなたも私も人間でしたか  森野ひじき

京都某所で有名俳優の方とトイレをご一緒した、という自慢?話を聞いたときのことを思い出しました。トイレを待っているときだけは、どんな人もやることや考えていることが同じで、この人も私も人間なんだと感じる一瞬。よくある場面かもしれないのですが「行儀よく」という初句が、作者の個性をあらわしているような気がします。

アフリカとブラジルの風混ぜたくてコーヒー店の麻袋買う  有田里絵

ぼくはコーヒーをレギュラーで楽しんでいるのですが、いつも豆を買うラテアートのコーヒースタンドに、時々、コーヒー豆の麻袋が積んであることがあります。そこから異国の匂いが漂う。コーヒーは飲まないけれど、麻袋を買って香りだけ楽しむ、という感じでしょうか。考えるだけで鼻の奥にコーヒーの香りが生まれます。

カステラの紙を剥いだらザラメぜんぶ持っていかれたように朝が来る  土居文恵

もの凄く残念な朝とも言えるし、ギラギラとした太陽は、実はザラメで、カステラ紙の空に貼りついているような朝とも言えるし、とにかく、想像する世界観を全部持っていかれてしまって、驚く。この歌では「朝が来る」ことしか言っていないのに、ガラガラと音を立てて朝が来て、残念なような、やれやれなような、でもしっかり朝が来ることを歓迎しているような、さまざまな感情をあらわしていて巧みだ。

木漏れ陽がほんとに綺麗 どうしよう 鈍感は最高のごちそうさま  小野田光

初句と下の句に挟まれた「どうしよう」が出色。なにがどう「どうしよう」なのか分からないけれど、途方に暮れている感じがすごい。でもこれ以上心に負担をかけない「鈍感さ」が一番なんだよね、と自分を納得させるように考えを終わらせる「ごちそうさま」。そうだ、そうだ。ぼくも「ごちそうさま」で行こう。

このまんま独りで生きてゆけそうと告げた母から「そっか」がひとひら  土井みほ

「そっか」という言葉がはらはらと落ちる。決して存在が消えていったわけではないそのひとひらの言葉が、じわじわと効いてくる。期待していた言葉とは違っていたけれど、どこかわかっていたような「そっか」。実際に耳にしてしまうと、何か違うと思いながらも、それを遮ることができなかった主体の気持ちも一緒に揺れている。

ああそうか今朝見た車のナンバーは忘れかけてた市外局番  百々橘

ダイヤル回して、あるいはプッシュボタンで電話することがないから、市外局番を意識することがほとんど無いかもしれない。呪文のように覚えていましたから。偶然目にした車のナンバーが気になって気になって、やっと思い出した。あぁ!こういう種類の記憶って、頭の中にいっぱい貯めこまれていて、小さい宇宙が頭の中にいっぱいあるのかもしれないです。

今月は以上です。かばん本誌が手に入る方は、手に取ってみてください。



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