かばん2023年9月号評

かばん2023年9月号の歌評を書いてみました。

辻井伸行のピアノ鍵盤にバッタ大量発生跳ねる跳ねた跳ねた
/ゆすらうめのツキ
ピアニストの辻井さんの躍動的な動きが、視覚的に捉えられていて迫力のある歌になった。「跳ねる」で一つ目の音が聞こえたあと、「跳ねた跳ねた」で速力が上がっていく曲調まで表現した。しかも「大量」なので、複雑なメロディ。聴覚にまで及ぶ歌。

「はじめての友だちアナタ」嬉しくてやがてかなしいジャミダのことば
/ユノこずえ
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉 を、やはり思い出しました。最初の友だちになった嬉しさとともに、これまで友だちがいなかったジャミダに気づくとき、その背景に様々な思いを感じさせる。芭蕉の句の背景と重なって、孤独な影も感じられる。

思い出に還元されて生きている東京駅の固めのプリン
/屋上エデン
「東京駅の固めのプリン」検索してみると、レトロなカフェバーの四角いプリン。この喫茶に立ち寄る人たちは、心の中の思い出をプリンという実体に「還元」して時を過ごすのだろう。東京というと、現代を切り開いていく街のイメージが強いけれど、所々にレトロなスポットが顔をだしている気がする。還元されたプリンはやがて、体の中で燃やされていくのだろうか。

唐突に下の名前を呼んでみた花火が上がる数秒前に
/藤野富士子
打ち上げ花火の、大玉が上がる微妙な「間」をこのように捉えているのがすごい。デートで花火大会に来て、迷って迷って、苗字ではなくて、名前で呼びかけてみたのに、「しゅぼっ」とかいって花火が打ちあがっていく。それを二人してみてしまわざるを得ない次の瞬間まで表現されている。

よの中のよになるどうせできもせぬことを知ってて言うのよのよが
/土井礼一郎
どの「よ」が「世」なのか、「よ」は世の中の一部なのか、全部なのか。そんな、大きさも深さも広さも分らない「世の中」から自分がはみ出していることは確かにわかるっていうことが、不思議です。しかも、はみ出していることを「世の中」の方から言われてしまうのも、さらに不思議な気がしてきました。

塩分を必要とする猛暑日の塩分としてわたしとあなた
/青木俊介
青木さんの歌なのでエロティックな感じにも捉えることができるのですが、塩分を必要とすることが切実な問題となる猛暑日なので、ここはひとつ、熱中症対策ということで、大丈夫?じゃないですよね。。

二度三度顔を合わせて普通なら親しくすべき時が近づく
/島坂準一
その時が迫っているのだけれど、まだ挨拶もしてないし、したとしても挨拶だけで、そろそろ世間話のひとつでもしなければと思うけれども、そういうの苦手なんだよね、何しゃべっていいか分からないし、あぁ、今日は知らん顔しようかしら、などという想像が止まらない。

信号機のほそい柱の陰のなかスマホ画面の指令が読めぬ
/大甘
信号機の柱は細いけど、その細い影しかよける場所がない。屋根のないバス停はほんとソレ。LINEか何かでメッセージが送られてきても、光って読めない。どうにも、気の毒な男性サラリーマンの背中が見えてくるのですが。

梅雨明けの十五歳なら全開のポニーテールにためらいはない
/有田里絵
これは、顔のことだと思ったのですが、良かったでしょうか。真夏にむかっていく日差しにむかって、汗を浮かべた顔を勢いよく曝して、十五歳のはじけるような表情が、表情についての記述が全くないのに、目に浮かぶような描写がすごい。

戴冠式に揺らぐことをゆるされぬ抽象体を馬車は揺らしぬ
/森山緋紗
イギリス王家の戴冠式。王冠は相当な重量だそうだ。それに耐えている王は人ではなく「抽象体」だ、と捉えた言葉選びの技術がすごい。王は概念なのだけれど、実体を持っているだけに、「抽象体」という捉え方が、幾重にも想像の厚みをもたせている。

ゆるやかに先を隠され曲がりゆく道ならばいい 怖がりだから
/雛河麦
「曲がりゆく道」から『赤毛のアン』を連想してしまう単純なぼくなのだが、アンのように前向きではなくて、曲がり角の向こうが見えなくて「怖い」という方が共感してしまう。直線はもっと怖い。ちょっとだけ見えるような、見えないような「ゆるやか」さが、ちょうどいいのだ。

黒塗りのロールスロイスが醸し出す三十条はシャラララシャララ
/本田葵
日本国憲法 第三十条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」それについてシャラララとしか言いようがない。ロールスロイスの黒が放つ圧倒的な強さは。

ひとつづつ まうひとつづつ 出来ぬこと増えてこどもに戻るか人は
/大黒千加

線香花火の玉めいて落ちる陽よ世界はきみにやさしかったか
/井辻朱美
ぽとんと落ちてしまった夕陽。一日が、突然終わってしまったかのような世界で、今日の世界は「やさしかったか」と問われている。現実の世界、社会がどのようであろうが、やさしかったかどうかは「きみ」次第なんだよと言われているような気がする。ふるふると震える線香花火の玉は、「きみ」と呼びかけられている読み手側のぼく自身かもしれない。

ただ一つ光っていない電飾を見つめつづけて真夜中になる
/木村友
イルミネーションで光っていない小さなライト。なぜ光っていないのか気になる。あるいは、どのような気持ちで暗く居続けてしまうのか考えてしまう。ずっと見つめて、気がつけば作中主体のわたし(ぼく)だけになってしまう夜は、とても静かな夜だと思う。

生き別れと同じく兄は遠く離れそれは幸せな家庭を築いた
/石狩良平
離れ離れに暮らしていて、年に数えるほどの音信であれば、それは「生き別れと同じ」なのだという。確かにそうかもしれないと思った。

なんとなくさびしいくらいはがまんしてえいえんをしるしあわせなひとに
/柳谷あゆみ
すべて平仮名で表記されている「しあわせ」のことは、「えいえん」に繰り返されるような眩暈を伴う。「なんとなくさびしい」くらいのことがどんどん積み重なって、うずくまってしまいそうになる。

どんなにか楽しいところなのだろう存在しないねじまき島は
/森野ひじき
「ねじまき島」は、機械的な響きがあって、楽しい場所のような気がしないけれども、機械的に物事が運ぶ方が楽しかったり安心したりすることもあり、とても複雑な気持ちになった。

あちこちの俺の身体が部首として使われたのさ。その目、返しな
/折田日々希
「俺の身体が部首として使われた」という比喩と言うか把握と言うか、この捉え方は新しい表現を模索した感じがする。一方で、目が部首となっている感じは、すぐに思い浮かばなかった。眠、瞭、それから眼。。

ワンクラス上の車に乗る友に鳩の爪先ほどのジェラシー
/土居文恵
「鳩の爪の先」とは、とても小さいけれども鋭そうだ。車がステイタスシンボルである時代から、今は多様化の時代になったような気がするけれども、やはりチクリと心を刺激するものがある。それを野性的に捉えた。

恥ずかしいことは多くて玉ねぎを泣きながら切る粗く細かく
/百々橘
思い出すと、なんて恥ずかしいことをしたんだと思うことは、多い。変な動きとかして自分でごまかしている。とにかく玉ねぎを粗く切ったり細かく切ったりして泣いてみて、何とか自分を保ちたい、という気持ちが伝わる。

傘の骨少し曲がって開くには小さな山を越えてゆかねば
/大池アザミ
こちらも『赤毛のアン』の一節を思い出す。ぐぐっと押し出すようにしなければ傘が開かない。小さな山であっても、わりと抵抗感があるものだ。まっすぐな既製品ではないから、多少の抵抗感を乗り越えなければ、傘は開かない。

「まっすぐに見ててください」くっきりと見たこともない森と気球と
/小野田光
視力検査の機器を両目で覗き込むと見える「森と気球」。最初はぼやけているがくくくっと像が結ばれ、くっきりと現れる。水で洗ったような奇妙に澄んだ世界は、ひとっこひとりいない世界。どこかいびつでゆがんでいるような世界を「まっすぐに」見続ける不思議さ。身近な異世界をコンパクトに閉じ込めた。

薄霧の朝にやさしく包まれて森の楽隊ねむっています
/土井みほ
土井さんがドイツ在住ということで、ブレーメンの音楽隊を連想してしまう。旅につかれた音楽隊の面々が、それぞれの姿勢で眠るドイツの森。薄霧の中にやさしく差し込む朝日は、童話の世界そのものだ。

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