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【漫画】『枕草子』ってどんな話? ー 定子の最期と清少納言が残したかったもの ー


辛く悲しいことには触れず、中宮(のち皇后)定子さまとの華やかな日々を描いた『枕草子』。当然、定子の最期の瞬間は記されてはおらず、亡くなる7ヶ月前の端午の節句について書いた「三条の宮におはします頃」という章段が最後の姿となっています。

この頃定子は、一条天皇との3人目の子・媄子びしを妊娠中(長保2年(西暦1000)年の2月、長男・敦康親王の百日ももかの儀のために参内しているので、そのとき身籠ったのでしょう)。
この章段で清少納言が「ませ越しに」と言って”青ざし“を出したのは、つわりで食の細くなった定子に少しでも何か口にしてほしいという思いからだという説もあるようです。

“青ざし”の材料である麦から「ほんのわずかしか麦を食べられない馬」を詠んだ歌を連想し、「籬越しに候ふ」と述べた清少納言と、その下の句に自らの心情を重ねて歌を詠む定子。
2人が様々な思いを共有していたことが窺えます。


「三条の宮…」から定子が亡くなるまでの空白の7ヶ月

史実によれば、定子はその後、8月に20日間ほど今内裏に滞在し、再び三条の宮に退出。12月に次女・媄子を出産し、その直後に亡くなりました。
死因は出産後の後産が降りなかったためと言われています。当時の出産はまさに命懸けで、母子ともに健康というのは5割を切っていたというほどで…定子もその数字を越えることはできなかったのでしょう。

しかし、清少納言が定子の亡くなる場面をあえて書かなかったのはわかりますが、「三条の宮…」のあと、出産までの7ヶ月間を扱った章段がないのはなぜなのでしょうか。
その理由は当時の定子の置かれた状況から察せられるように思います。



定子の最後の住まいとなった三条の宮というのは平生昌たいらのなりまさという中級貴族の家のこと。
“宮”というと立派な邸宅を想像してしまいますが、実体は輿を入れるべき門もない、中宮(皇后)が過ごすのに相応しいとは言い難い粗末な造りの家でした。
おまけにこの生昌は、長徳の変の際、定子の兄・伊周これちかが配流先の太宰府へ向かう途中で密かに京に引き返したことを道長に密告した、定子にとって”裏切り者”とも言える人物です。
実家が焼失し後ろ盾もない定子は、格下の生昌の世話になるしかありませんでしたが、それは清少納言にとってあまり残したくないことだったのかもしれません。

では、8月の今内裏滞在の頃はどうでしょう。一条天皇と過ごした最後の時に美しく花開く定子の姿はなかったのでしょうか?
時勢を見れば政敵・藤原道長の娘・彰子がわずか13歳で新たに中宮となり、前代未聞の一帝二后という状況を生んでいました。時代の趨勢は確実に道長側に傾いており、一条天皇も幼い妃といえども彰子の存在を無視するわけにいかなかったでしょう。
天皇との久しぶりの再会も定子にとってはかえって自身の心細さを痛感させられる時間になってしまったのかもしれません。

『枕草子』における年次的に最後の章段「三条の宮におはします頃」から定子が亡くなるまでの7ヶ月間に、実際には様々なことがあったのだと思います。
ですがあくまで主人として輝く定子の姿を残したかった清少納言が書き広めたいと思うような出来事は、もうなかったのかもしれません。


清少納言が「三条の宮…」で残したかったもの ー 定子の死後、一条天皇の寵愛を受けた御匣殿

では逆に、清少納言はなぜ「三条の宮におはします頃」の章段を残したのでしょう?
清少納言との信頼関係を示すエピソードとして、というのもわかりますが、このときの定子の歌はやや後ろ向きで、どんな苦境に立たされても微笑みを絶やさず周囲への気配りを忘れない、清少納言が敬愛した姿とは少し異なる気もします。
『枕草子』執筆の意図を考えれば、たとえばこの前の2月の今内裏滞在の頃、すなわち二后並立の前を描いた章段(「一条の院をば今内裏とぞいふ」)を最後に留めておけば、『枕草子』の中だけでも、定子を一条天皇のただ一人の中宮として残すこともできたのです。

個人的な考えですが、清少納言が「三条の宮…」の章段を書いたのは、定子の姿ではなくむしろ、定子の遺児たちと末の妹・御匣殿みくしげどのを描くためだったのではないでしょうか。

定子には3人の妹がいましたが、上の2人はそれぞれ東宮や親王に嫁いでおり、末の妹だけが未婚でした。彼女の本名は分かりませんが、宮中に出仕し、御匣殿別当という役職についていたことから、この名で呼ばれています。

御匣殿はまだ若く17歳前後だったと言われていますが、定子から子どもたちの養育を託され、定子の死後母親代わりとなりました。
一条天皇の希望もあって、子の養育は宮中で行われたと言われています。

子どもたちのもとに訪れた天皇は、次第に御匣殿に惹かれるようになりました。
姉妹の両方と結ばれるというのは現代ではちょっと受け入れ難いですが、平安時代には他にもいくつか例があり(花山院や、男女逆ですが和泉式部、『源氏物語』の宇治十帖も)、そうめずらしくないことだったのかもしれません。
亡き人を偲んで…という気持ちもありますし、家同士の結びつきという点で考えても合理的な選択です。

もの静かで控えめな美しい女性で、姉妹のうちで最も定子に似ていた御匣殿。
一条天皇の寵愛を受け、やがて妊娠に至ります。
入内すらしていない状態での懐妊ですが、もし男児を出産しその後も天皇の扱いが重ければ明るい将来が望めるかもしれません。定子の兄たちはさぞ喜んだことでしょう。

しかし、長保4(1002)年6月、御匣殿は身重のまま亡くなります。
定子の遺児・敦康親王は政敵であった藤原道長の思惑から、道長の娘の皇后・彰子に引き取られていきました。

『枕草子』は定子の死後も書き続けられており、少なくとも1009年まで執筆は続いたと言われています。
「三条の宮におはします頃」がいつ書かれたのかはわかりませんが…御匣殿が懐妊した頃、あるいは亡くなった頃に書かれたとしたらどうでしょう?
定子と子どもたち、そしてその養育を託された御匣殿を同時に活写することで彼女たちの存在に光を当てたかったのかもしれません。

定子が命と引きかえに産んだ媄子内親王は数え年9歳でこの世を去り、長男・敦康親王は一条天皇の第一皇子でありながら皇位を継ぐことはできませんでした。
定子の上の妹・原子は長保4(1002)年に、長兄・伊周は寛弘7(1010)年に亡くなり、最も長生きした長女・脩子内親王は生涯未婚を通します。

定子をはじめ、その周辺の人々は政治の表舞台で長く活躍するはずの人々でした。しかし歴史はそう甘くはなく、時代の趨勢は彼女たちから離れていきます。

清少納言はそうした状況を眺めながら、そこからこぼれ落ちてしまった人々のいきいきとした姿を『枕草子』に書き留めていきました。
1000年も後の私たちが定子の姿を思い描くことができるのは、清少納言のような人物がいたからなのです。


【参考】
赤間恵都子氏の以下のコラム(41)〜(44)、(46)、(48)


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