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【漫画】『枕草子』ってどんな話? ー 雪山の賭けと定子の復帰 ー


内裏を退出してから1年後、中宮職ちゅうぐうしき御曹司みぞうしに住むこととなった定子。

中宮職の御曹司というのは中宮に関わる公務を司る役所のことで、内裏の外・大内裏の内にありました。長徳の変で髪を落とした定子は、倫理的・政治宗教的な理由で内裏に戻ることが許されず、不安定な立場に置かれます。
史実では夫である一条天皇も定子のもとに通うことはなかったようで…公卿たちから厳しい批判があったのでしょう。

しかしそのような中でも定子サロンは華やかさ保ちつづけ、ある”賭け“を始めました。その様子を描いた「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」の章段を見てみましょう。


中宮・定子による雪山づくり ー 宮廷文化の担い手としてのアピール戦略

12月10日過ぎの積雪を機に突如始まった雪山づくり。
たわいのない雪遊びのように思われますが、当時、雪山づくりは天皇や中宮、あるいは公卿たちの号令のもと行われる、一種の宮廷文化でした。

『枕草子』の頃からおよそ50年前、醍醐天皇の時代とともに延喜・天暦の治として讃えられた村上天皇の治世でも雪山がつくられておりました。
村上天皇の日記『天暦御記』には、応和3(963)年閏12月20日、飛鳥部常則あすかべのつねのりが、蓬莱山を模した雪山をつくったと記されています。

飛鳥部常則は、延喜・天暦の2朝に仕えたとされる宮廷絵師。
『源氏物語』でもその名が幾度か見られる当世一流の画人です(『源氏物語』は時代設定を延喜・天暦の治の頃としていましたから、常則が”現代風”の画家として登場するわけです)。

史料を見ると、平安時代中期以降、都人は富士山や越の白山に見立てて雪山をつくり、それを前に作文や和歌の会を催したり、雅楽の演奏を聴いたりしていたことが窺えます。雪山づくりは単なる雪遊びではなく、村上天皇を範とした宮廷文化の一つだったのです。

『枕草子』では、「清涼殿の丑寅の隅の」や「村上の前帝の御時に」でも村上天皇時代のエピソードが語られており、清少納言や定子が当時の宮廷文化を意識していたことが窺えます(実際、村上天皇は一条天皇の祖父にあたり、清少納言の父・清原元輔は村上朝の和歌集『後撰集』の撰者の一人でした)。

「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」の章段では、下級の女官や侍(側仕えの者)から、雪掃いにきていた主殿寮とのもづかさの官人や中宮職の官人まで、少なくとも20数名以上の者の手によって大きな雪山がつくられ、終わった後は中宮職の役人を通じて巻絹を2巻が褒美として与えられました。
定子自ら命じる場面こそ描かれていませんが、この雪山づくりが中宮の立場から行われたものだとわかります。

また天皇の使いとしてやってきた式部丞しきぶのじょう・源忠隆のセリフも示唆的です。

「けふ雪の山作らせ給はぬところなむなき。御前の壺にも作らせ給へり。春宮にも弘徽殿にも作られたりつ。京極殿にも作らせ給へりけり」

(「きょう、雪の山をおつくりにならなかった御殿はありません。主上も前庭におつくらせになりました。春宮(皇太子)も弘徽殿もおつくらせになりました。道長さまの京極殿でもおつくりになりました」)
※弘徽殿は一条天皇の女御・藤原義子のこと

清少納言『枕草子』「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」より
現代語訳は大庭みな子 一部筆者注

と述べており、この日一条天皇をはじめ主だった貴人たちは皆、雪山をつくらせていたことがわかります。
定子には、職の御曹司という辺境に留まりながら、中宮の立場にふさわしい文化的水準の高さを維持していることを、雪山づくりを通してアピールする狙いがあったのです。


さりげなく描かれる高貴な方々との交流と内裏参入 ー 『枕草子』のみが記した史実

清少納言ももちろん、こうした定子の意図を理解していたことでしょう。
この章段ではまず冒頭に現れる尼乞食を話のタネに、右近の内侍という女性が登場し、次の雪山の場面で式部丞・忠隆が出てきます。
この2人はいずれも一条天皇の使いで、直接のお召しはなくとも天皇が定子を気にかけていることが示されます。

もう一つ重要なのは、正月2日に届いた斎院からの手紙でしょう。
斎院とは賀茂神社に仕えた未婚の内親王または皇族の女性のこと。
ここで登場する斎院は、村上天皇(!)の第10皇女選子せんし内親王で、12歳で選ばれて以来5代に渡って務め続け「大斎院」と称されました。一条天皇の時代はまだ3代目の頃ですが、この時点で既に宮廷文化の担い手として文化的なサロンを築いていたようです。

その大斎院から正月早々定子のもとに使者があり、美しく飾られた卯槌うづちが届けられました。
卯槌とは、桃の木を長さ9cmほどの直方体に切り出して縦に穴を空け、そこから5色の組紐を垂らしたもの(上の漫画のタイトル部分のイラストをご参照ください)。朝廷への献上品である卯杖から派生したもので、正月の最初の卯の日に邪気払いのために贈ります。
大斎院からの卯槌は、その頭を紙で包み、山橘、日かげのかずら、山菅やますげなどで飾ったもので、定子は心を込めて返事を書きました。

定子が内裏に呼ばれたのはその翌日、正月3日のことです。
それは突然の出来事で、清少納言も定子も、雪山の賭けの行方を直接見届けられないことを残念がります。
しかしそれは当然世間(『枕草子』の読者)に向けてのポーズであり、2年ぶりの内裏参入を喜ばなかったはずはありません。

喜ばしいはずのニュースがあくまで賭けのついでのように描かれているのは、当時の政治状況に配慮してのことでしょう。
このとき政治の実権を握っていたのは左大臣・藤原道長。長徳の変で、定子の実家を没落に追い込んだ張本人と言われています。定子の兄弟たちは、恩赦によって京に戻ってはいたもののまだ元の位には復帰しておらず、後ろ盾としては頼りない状態です。

実は、このときの定子の参内は『枕草子』にしか記されておらず、他の記録類には残されていないそうで…周囲の賛同のないまま一条天皇が断行したのかもしれません。

清少納言が定子の内裏参入に合わせて雪山づくりや大斎院との交流を描いたのは、定子の中宮としての正当性をアピールする目的があったのでしょう。
こうした定子や清少納言の”賭け”が実際どのくらい効果があったのかはわかりません。
しかしこのときの参内で定子は、一条天皇の第一皇子である敦康親王を身籠ることとなり、実家・中関白家復興の機運が高まったことは確かなのです。

平安時代、雪は瑞兆として人々に喜ばれるものでした。
その雪にのせて、あくまで滑稽に”賭け”の行方を描いた清少納言。
自身は負けてしまいましたが、一条天皇の隣で微笑む中宮・定子こそ清少納言の残したかったものなのでしょう。


【参考】
赤間恵都子氏の以下のコラム(11)〜(14)、(37)〜(40)

大庭みな子著(2014)『現代語訳 枕草子』岩波書店
川村裕子著、早川圭子絵(2022)『はじめての王朝文化辞典』角川ソフィア文庫
相澤央(2024)『雪と暮らす古代の人々』吉川弘文館


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