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自己憐憫と自己満足

カルチャースクールに通っている。

4月からの講座の早期継続申し込み者を対象に、抽選があったらしく、私は当選したらしい。

抽選の存在も知らなかったし、当選するとノベルティグッズがもらえることも知らなかった。

早期申し込みができたのは、たまたまだった。

講座の先生が「森うさぎさん、よかったですね!」と言って、ノベルティグッズを渡してくれた。

講座をやってるスクールのオリジナルキャラクターが描かれたマスクだった。かわいい。

こういうキャラグッズを、私は欲しいけど買わないので、もらえるなんて、ラッキーだな、嬉しいなと思った。

そのカルチャースクールに最近入会された方がいる。その方は、一事が万事、自己卑下というか、自尊感情が低いというか、口癖は「私なんか」「私本当にダメで」「私なんか場違いで」「何してもとろくて、遅くて、センスもなくて」という感じな人だ。いつもいつも人と自分を比べてばかりいる。

今回私のノベルティグッズ当選も、「よかったですね」ではなくて、「私なんか、何しても遅いのよね。本当に申し込むのも遅いから……」と自己卑下を始めて、苦笑いするしかなかった。

こんな申し込みの時期で、遅いだの早いだのと比べても仕方ない。みんな抽選の存在すら知らなかったのだから、本当に偶然の当選だった。「そんなことあるんですね」くらいで済ませればいいのに、他人のラッキーを引き合いにして、自己卑下を展開し強引に話題を持っていくのも、なんとも微妙だ。

そんなに、自分のことを貶めたいのか、と意地悪にも思ってしまう。

意地悪ついでに、自己否定、自己卑下をして、「かわいそうな自分」と、自己満足にひたっているのではと思ってしまう。できない自分に対して先回りした言い訳をして、できてないのは、かわいそうだからと言い回る。

自分かわいそう、自分だめなの。

その次は、「ねえ? そう思ってくれるでしょう?」「(私が否定するほど)そんなことないわよね?」という言葉が滲んでいる気がして仕方がない。自己否定のあと、必ず相手からのフォローを待っている感じ。正直、めんどうくさい。

何度か顔を合わせているけど、この人の考え方の卑屈さや、自己卑下の下に隠れている、傲慢なまでの自己憐憫に、本人は気づいてない感じもして、厄介なことこの上ない。

なぜか私が相手になって話をすることがよくあり、自分を貶めたあとは、私を褒め、羨むことしきりだ。私と比べて、自分のダメなところを言い募り、「あなたは偉いわ(すごいわ)。それに比べて私は……」と続く。

なにが羨ましいものか。偉いものか。すごいものか。比べられて嬉しいことなんて何も無い。

と思うし、発言の数々に思うところもあって、疲れる。その自己卑下のあと、フォローしなきゃいけない空気感も、その空気感に押されて、フォローをひねりだすのも。

私だめなんです。

というのは、本当に気持ちがいいのだろう。簡単だろう。

相手に「そんなことない」って言ってもらえるまで、否定し続ければ、自己満足的な達成感も生まれる。

自分のことを卑下して、否定して、正直になったつもりなのかなと思うが、そんな正直は、聞く相手にはとても負担だ。時々ならいざしらず、顔を合わせる度、口を開く度では。

「そんなことないって言われたい」とは、誰にでもある感情だけど、度が過ぎると、承認欲求の塊になり、自身も苦しいのではないかと思う。

自分を守るつもりの自己否定、自己卑下であっても、それが上手く機能しているかどうかは、やはり自分で判断するしかない。

自己満足の自己憐憫にいつまでも浸っている人には、本来の意味での認められた感はないだろうし、不安なままだろう。幸福感も減りそう。

この記事の人が、「私はダメなんです」から、早く抜け出せるといいなと思う。

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