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卯岡若菜
2019年9月29日 21:31
久しぶりに実家に帰った。あれもこれもうまくいかないことが続き、何とか支えていた最後の一本の柱も、つい先日ぽきんと折れてしまった。どうしようもなくなって実家に戻ってきたけれど、一昔前のニュータウンには何もない。子どもたちはすでに成長し、大半がここを出て行ってしまった。ぼくもそのうちのひとりだ。……今となっては、「だった」だけれど。「ゆっくり休みなさい」だなんて優しい言葉をかけてくれるわけもな
2019年9月8日 21:46
カタカタカタと音を立てる映写機。暗闇のなか、背後から真正面を静かに照らすほの白い光は、まるで月の明かりのようだった。+++「月ってさ、あんなに大きくないよねえ、ってずっと思ってたんだよね」 唐突に、本当に何の脈絡もなくさやかが言った。その言葉に関連があるとすれば、今が夜なことくらいだ。ただ、今夜は月が見えない。だからなのか、自転車を押しながら歩く駅からの道は、いつもより数段暗く思えた
2019年8月25日 21:00
ぼおおっと鈍い音が響く。影が揺らめき、少女は微かに肩を震わせた。しばらくあたりを伺うように瞳を左右に動かして、ほうっと小さく息を吐く。溜息に合わせるようにして、炎が踊るように揺らめいた。光が動くことで、闇が一層色濃く存在感を示す。深夜零時。光も音も、すべてが眠りについていた。 木造の古びた図書館の床はひんやりとして、少女の素足の温度と混ざりあいながら境目を曖昧にさせていく。足の裏で感じるすべ
2019年8月4日 21:32
ワンピースの裾から、生ぬるい空気が太ももに絡みつく。夏の空気は、ピントがずれた写真のように締まりがなく、それでいて重い。無邪気に裾を広げながら、くるりくるくる回っていられたのは、今はもう遠い昔のこと。二度とあの頃に戻れないことを、彼女は知っていた。 彼女が今も昔もワンピースを好むのは、ただただ着替えに割く労力を減らしたいからだった。クローゼットにずらりと並べられたワンピースを、適当に引っ掴み
2019年7月21日 21:00
その香りが、どうしたってあたしはニガテ。アレさえなければ、サイコーにハッピーなのになあ、って思う。この暑さとか、湿り気とか。大好きなのよ、あたし。あたしたちに許された時間は短い。一生を旅だとするならば、今、目の前で手に持ったソレに火をつけようとしているあんたと比べると、あたしの旅は日帰りかもしれないわね。そんな日帰り旅行レベルの時間しか許されないあたしの命の灯を、今あんたは思いっきり強い風
2019年7月7日 21:07
こっぴどい振られ方をした。思い出したくもないから、言葉にはしない。追いすがれるほど感情に身をゆだねることはできなかった。そんな女なんです。最後の最後まで物分かりのいい振りをしてしまって後悔するいつものパターン。後悔はしない。していない。しないんだよ。まあ、そんな後悔をしてもしなくても、関係なく日々の生活は回る。残酷なほどに。トイレットペーパーはなくなるし、シャンプーはいつもトリートメントと別の
2019年6月23日 20:59
ユヅキとボクがそのときハマっていたことといったら、アパートの裏庭に作られている蜘蛛の巣を枝先で壊すことだった。慌てたように上によじ登っていく蜘蛛を見ながら、ユヅキは頬を紅潮させた。その横顔を見ながら、ボクの胸は高鳴った。悪いことをしている自覚があるのかないのかと聞かれたら、よくわからなかった。いや、あったのかもしれない。共犯者としての連帯感が、ボクたちを裏庭に呼び寄せていたのかもしれないか
2018年9月30日 23:59
「恋なんて壮大な勘違いだよ」と、あなたは言った。だから忘れるよ、今だけだよ、と。 期間限定だった。あなたがすぐにここを去ることはわかっていたから。「期間限定品って逃したくなくなるじゃん。そういうことだよ」と、あなたは言う。わたしが好きになった笑顔で。残酷な人だ。わたしは小さくにらんだ。 勘違いでもなんでもよかった。だから、わたしがいいのかダメなのかを言ってほしかった。それなのに
2018年9月30日 23:52
千帆が東京の専門学校に行くと言い出したのは、高2の終わりだった。「お母さんにはめっちゃ反対されたんだけどね」 あっけらかんと笑う千帆が眩しい。わたしは、専門に行こうかどうか迷って、結局無難な四大に進路先を決めたから。「ナナは賢いんだから、大学行った方がいいじゃん」と千帆は言うけど、千帆の成績はわたしとは変わらない。「一応行っておいたら」という周りの声に飲まれた選択をしてしまったよ
2018年9月30日 23:36
「こう、夏が終わるなっていう風ってあるよね。ほら、今みたいなの」 唐突に美月が言った。今日の気温は36度。「何言ってんの。暑いんだけど」「いや、暑いんだけど、そうじゃなくて。風だよ、風。風だけ秋」「意味わかんないよ」 美月は不服そうな顔をして、ガリガリ君をしゃくしゃくと食べる。夏の情景真っ盛りなんだけど。「空気にさ、こう、秋の匂いが混ざるんだよ。それが風にのって、ふわっと香る。
2018年9月30日 23:25
そのツバメだけが、ずっと軒下の巣に収まっていた。 下に落ちるフンの掃除係に任命されていた僕は、早く巣立てよな、と思っていた。親ツバメも心なしか心配しているように見える。 巣にパンパンに収まりながら、いつまでもグズグズしているツバメ。まるで僕を見ているようで嫌な気持ちになる。僕の親もウロウロしては、あの親ツバメと同じ目をしているから。「……でも、おまえは飛ばなきゃ置いて行かれちゃうんだ
2018年9月30日 23:11
その屋敷に行くと、いつだって豪華なお菓子が食べられた。そのためだけに出向いていたわけじゃなかったけれど、見たこともないお菓子が食べられるのは、ぼくのちょっとした楽しみだった。「今日も来てくれたのね」 アリアが微笑む。アリアはこの屋敷に住んでいる女の子で、どこかの国とのハーフだ。体が弱いため、学校には行けないのだ、とはじめて会ったときに聞いた。「今日はね、ババロアが冷えているのよ。手作
2018年9月30日 22:59
どこかに行きたいと思っていた。だけど未成年のわたしはどこにも行けなくて、夜になるとパソコンをつける。 デスクライトとパソコンの灯りがぼうっと部屋を照らす。ピアノの鍵盤を叩くように、キーボードを夜中打ち続けた。 物語でなら、わたしはどこにだって行ける。笑って、泣いて、大好きな人といつまでも一緒にいられることだってできた。……それでも、少し思っている。大人に近づくたび、向こう側へ行くチケット
2018年9月30日 17:18
隠し撮りが好きだと言ったら、「やめてよ」と言われた。それでもやっぱり好きだから、懲りずにシャッター切っては、「もう!」と言われている。 そのときにしか訪れない、一瞬の空気の揺らぎ。今にも溢れ落ちそうになっている、「好き」。そのすべてが幸せで、愛おしい。だから、僕はシャッターを切る。その場所の空気の手触りや匂いもすべて、一枚に閉じ込めるように。「写真を見返したら記憶が呼び戻されるんだよ」