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2024年3月7日 文章の壁打ち

改めて、
noteで記事を書き始めたのは、少しでも文章を書けるようになりたかったからです。


テニスやボール投げの練習を壁に向かって行うことを、俗に「壁打ち」と言ったりしますが、
noteの記事を書くことは、
文章の壁打ちのようなものです。
1人でできる基礎練習。
とはいえ、そもそも書くことは、一人でできる活動です。
別に公開する必要はありません。
ひたすら、紙に、スマホに、パソコンに書いていく、入力していくので、十分といえば、十分なのです。
noteで記事を書いてわざわざ公開するのは、壁打ちといえるのかと思われる人もいるでしょう。
今日で、連続更新は190日です。
書くことをこれほど継続できたことはありません。
半年近く毎日描き続けていることになります。
これまで様々なやり方で、書くことを続けようとしてきましたが、
ここまで続いたのは初めてです。

かなり前に、モーニングノートというのがよいと聞いて、実行していた時期があります。
朝の時間に、とにかくノート3ページ、思いついたものを手書きで書く、書いたものは読み返さないし、誰にも見せないというルールでした。
モーニングノートは文章の練習のために書くものではなく、内省をすすめ頭をすっきりさせるのが目的です。
誰に見せるものでもないし、読み返しもしないという意味では、モーニングノートの方がよりストイックな作業ともいえます。
このモーニングノート、何度かやっていますが、どれも長くて3ヶ月ほどしか続かなかったと記憶しています。
落ち着いて座って、手書きで書くというのがなかなか性に合わなかったというのもありますが、
継続できなかった1番の原因は、誰にも見せないし、自分も基本的には読み返さないというルールだと思います。
そういうルールだからこそ、
これまで気づいてこなかった自分の思いをどんどん書いていけるわけですし、
文法の破綻や誤字脱字を気にせず書いていけるわけですが、
それが自分には合わなかったようでした。

今、考えれば、内省を深める目的で書くモーニングノートは、少しでも面白い文章を書けるようになりたいという自分の願いと根本的にずれていたのかもしれません。
書いても誰の目にも触れないということは、面白いも面白くないも生じないからです。

結局、モーニングノートの内容は日を追うごとに、
内向きになっていき、愚痴っぽく、苛立ちを伴ったものに変化していきました。
誰も見ていない、誰も間違いを咎めないということが守りになり、
のびのびと表現ができるようになる人も多いのでしょうが、
自分はそう言うタイプではなかったのです。
自分以外には誰も読まないし、
そして、自分も読み返さない方がいい文章、
それに面白みを感じることができず、
ただ暗い感情のゴミ箱のようになってしまいました。

書き込んだノートはある時に一思いに捨てました。
それでも、文章の練習をしたいという思いは時々、湧き上がるので、
「とりあえず、なんでも書いてみよう」と、
思い出したようにモーニングノートを再開してみるのですが、
結局は、暗い感情のゴミ箱になってしまうのでした。
暗い感情がいけないわけではありませんが
どうせなら、もう少し、読み返して楽しいものを書きたい、
もしくは、読み返して何か気づくようなものが書きたい、
それが無理なら、記録としての日記をしっかり書きたいと思うようになりました。

その後、SNSで交流がある星見当番さんの活動に影響を受けて、

文章の壁打ちの場所をnoteに移すことにしました。
(その経緯はこちらのシリーズからどうぞ)

noteの良さについては以前も記事を書きましたが、

書くことを継続させようというシステムの良さがあります。

noteで文章の壁打ちをしていると
壁打ちの回数や見にきた人の数、応援してくれる人の数をカウントして教えてくれるというような
イメージです。
完全にひとりでやるよりは、モチベーションが継続しやすいです。
また、最近、わかってきたのは
自分は「他人の眼差しがある」方が、少しでもよい文章を書こうと試行錯誤できるタイプであるということです。
他人に自分が感じていることを真剣に文章で伝えようとすることは、
決して楽なものではありません。
どういう言葉、どう言う表現、どう言う比喩なら、読んでいる人にも伝わるのかを考える時、
読む人がわずかながらも存在するということは非常に大きいのです。
特に最近は、SNSで交流がある方が
コメントをくださったり、
「読んだよ」とそっと反応してくださる時があり、
とてもありがたく思っています。
顔のない誰かに向けて文章を書くより
SNS上とはいえ、交流がある方が読んでくださることもあるかもと
考えた方が、文章はぐっと書きやすくなります。
どう言うことを書いて、
どう言うことを書かないかについても、
読み手を設定した方が決めやすくなるのです。
それに加えて、交流がある方がもし読んでくださっても、
大丈夫なものを書こうと言うのも、
いい縛りになっています。
読み手の眼差しを想像できるということが
これほど文章を書きやすくしてくれるとは思いもよりませんでした。
他者からの眼差しというと「見られている恐怖」と捉えてしまわれる方もいると思うのですが、
視線があるゆえに、限界設定ができるのは安心なことでもあります。
また、自分から、継続的に発信を続けることで
どういう人間なのかを理解することができるので
SNSでの交流は盛んになりました。
SNSでいい交流をしたいなら、自分からの程よい発信は重要、と感じています。
このことはまた改めて掘り下げたいところですが、
一つ言えるのは、
鍵アカROM専でいきなりフォローしてくる人は
どんな思想かわからず、結構、恐ろしいということです。
「自分は無害な一般人なのに」と思われると思いますが、
何の情報もないのにそれがわかるわけはない…と思います。
リプライを飛ばすだけでなく、自分というものを少し出したほうが交流は取りやすいようだと感じています。
繋がるためにSNSをやるのではなく、
自分なりの活動をしていると、
誰かと自然と繋がることになるということなのでしょう。

というわけで、現在、noteは文章の壁打ち場となっています。
時折届く知り合いのエールや
通りがかった方の視線の中で
ひたすら壁打ちをしながら、
少しでも実力をつけていこうと奮闘しています。
なかなかいい練習場です。


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