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2024年4月8日 やっぱり推しがいない

「推し」がいることが当たり前のようになってきた昨今ですが、「推し」がいないのです…という記事を以前書きました。

この記事にはわりと反応があって、「推しがいなくてもいいんじゃないか」という気持ちになっておりました。
好きなものはあるけれど、皆さんの「推し」ほどまでの熱量はない、それでいいのかも…と。

しかし、世の中はやはり「推し」の話題が花盛りです。
今朝から、X(Twitter)で、また「推し」についてあまり、明るくはない話題が盛り上がっていました。
「推し」の話題はどうしてこんなに盛り上がるのでしょう。
そう言う時代だからといえば、そうなのですが、それだけでもない気がします。

そもそも、
友達ができにくい世界になっているのかなぁと感じています。
ただ何となく一緒にいる友達と言うのが非常に作りにくい時代なのかも…。
友達と言うのが感傷的なら知人とか知り合いと言っても良いでしょう。

昨日、「タイパ」とか「コスパ」について書いたのですが、


もし、友人を作ることに、その概念を導入すると、普通に生活していて友人を作ることは「タイパ」と「コスパ」が、むちゃくちゃ悪い部類のことに入ります。
どれだけ時間と労力をかけても相手が「嫌だ」って言ったら、
友人にはなれません。
親友のつもりでいたら、向こうには沢山の友達がいて、相手にとっては普通の友達の1人だったと言うこともよくあります。
そう言う時、ぐっとこらえて引き下がり、自分の思い違いを噛み殺す、
そう言う経験をした人はかなりいるのではないでしょうか。
おそらく、「推し」活でトラブルになるような人って、この辺りが嫌か、苦手か、避けてきた人かもしれません。

友人になるって、「誠心誠意かかわったから絶対親友になれる」「15時間一緒にいたから友達になれる」というものではないのです。
「6時間プレイしたらレベルが10上がるゲーム」みたいなわかりやすいルールがあるものでは、ありません。
とても不確定で不安定なゲームなのです。
一方、「〇〇を推す」ということにはもう少しわかりやすいルールがあるように思われます。
そとそも、こちらが、「ファン」で相手を「推す」と役割がはっきりしています。その反対は、「ファンサ」であって、「推す」ことではありません。
友人同士の関係性、とくに役割は容易に反転するものですし、固定しないことが多いですが、
「推し」との関係性ではそうではありません。
自分が相手を「推す」と言う関係は変わらないのです。
変わらないことは、別の言い方をすれば安心でもあります。
急に相手が関係性を変えてくることがないと信じて始められるのは、参入のハードルが低いはずです。

また、「推し」との関係性は、
ライブに行く、イベントに行く、音源を買う、グッズを買う、プレゼントを贈る、スパチャをするなどの活動でも表現されます。
どれも時間やお金がかかります。
友人関係で、相手におごったり、プレゼントしたりと言うことも起こり得ますが、
それが交流の大部分にはならない気がします。
それぞれが費用を分担して、遊びに出かけたり、食事をしたり、会話を楽しんだりすることが多いでしょう。
その上、これらは、値段やタイミングが明示されているわけではないのです。
いわゆる不文律で運用されており、何となくのタイミングや気遣いによって、誘ったり、誘われたりするわけです。
それに比べると、「推し」活は明快です。
「いついつにイベントをやるので、〇〇でチケットを買ってくださいね」とか
「〇〇からグッズが出ます!」とか
「スパチャの投げ方」などの情報が、
明文化されて次々とネットに流れてます。
その情報の通りにすれば、「推し」活の中では、「推し」から特別扱いされたり(それは「客」としてであり、決して友人ではないのですが)
「推し活仲間」から、羨望の眼差しで見られることもあるわけです。

これは、友人関係構築の難しさで悩んでいる人にとってはとても魅力的で
のめり込むきっかけになるだろうなぁと思います。
また、「推し」活を通すと、容易に知人さらには、友達ができることも、「推し」活の大きな魅力だろうと思います。
「〇〇推し」と言うタグをつけていれば、そのタグに関連ある、もしくは近しい興味をまた人とSNSで簡単につながることができます。
顔を合わせる前から、好きなものがわかっているのは、かなり便利ではあります。
地雷と言われたり、趣味が合わない人を避けたりすることが可能だからです。
また、「推し」について会話をすればよいのです。
人はたいてい、自分の好きな話であれば、話しやすいですから、話し下手な人でも、
会話に困ると言うことはないでしょう。

こう考えていくと、
「推し」活でないところで、知人や友人を作ると言うことは、
ひどく手間がかかる上に、不確実で、その上、苦痛なものだろうと思います。

「推し」活を楽しんでいる人たちの多くは、
その活動以外にも、友達や知人がおり、
『「推し」との関係は友達ではない』とわかっているひとたちな気がします。
とはいえ、
「推し」からまた自分は何なのか?という問い、
相手から見ると自分はどんな存在なのか?というイメージを持てるというのは
ある程度の年齢、社会経験、そして人間関係が必要とも考えられます。
でも、現代の社会で、社会経験や人間関係の経験をつめるところといえば、学校・バイト・職場・習い事、そして、ネット上・オンラインしかないのが現状です。
そして、オンラインだと、回遊している間に、友達や知人を作るより先に、「推し」が出来てしまう可能性が高いでしょう。
「推し」活の流行りと、「社会からの孤立化」って、案外、関係あるのかもしれませんね。
どうにかならないものかなぁ、と思ってしまいました。

今回、「推し」について色々と考えてみましたが、
その実、
「推し」はまだいないのです。
ただ、もともと友達が少なくて、人間関係が苦手な人間としては、
「自分は万が一「推し」が出来るとかなり危険なタイプ」の可能性もあると自覚しました。
周囲の様子を見ていると「推し」はいつできるかわからないと言うのは重々知っていましたが、
自分に厄介ヲタクの適性がありそうなのは盲点でした。

現実の友達を大切にしたり、知人を作る努力をしたり、
人間関係の経験の場を大事にしていきたいと思います。
(これって、老後の備えにもなるかもしれませんね…。)









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