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「書けない病」にハマっているあなたへ

「自分の考えや、思いを書きたい」。
そんなピュアな気持ちから始めたnoteが、なぜか「書けなくなった」という経験はないだろうか?

単に飽きたとか、書きたい気持ちがなくなったというわけではなく、何をどう書いたら良いか分からない、というあの感覚。

私自身もその沼にハマったことが何度もある。
ほんとに、何度も何度もある。

mixi時代に始まり、紆余曲折しながらも、かれこれ10年以上は「書こうとしてきた」、つまり「ネット上で自分のことを伝えようとしてきた」私が、ようやく病を克服した経緯について書いてみたい。

同じ沼にハマっている方にとって、何かしらのヒントになれば嬉しい。
よかったら最後まで読んでいってほしい。

迷いなく書けていた頃

私がいちばん楽しく書いていた頃というのは、noteアカウント(実は2度目だった)を作成し、書き始めた2020年の頃。その頃のnoteを今読み返してみても、我ながら勢いがある。

一方、最近書いたものはこんな感じ。停滞感満載。まるで私の今の生活や心境がそのまま現れている。言葉は嘘をつかない。

迷いなく書けていた頃の私というのは、未来の自分にワクワクしていた。初めて海外に住み、慣れない環境に初めはストレスを感じたものの、徐々に生活に慣れ、コロナ禍を経てバンクーバーという街での生活をただ楽しむことに振り切った。そうこうしている間に、下着ブランドを作るという次の目標を見つけた。

人は明確な目標があれば、ちゃんとアクセルを踏んで走っていける。言葉もそんな自分に、ついてきていた

「どうせ誰も読んでない」は意味がない

よく聞くアドバイスに、「他人にどう思われるかとか気にするほど、誰もあなたのことなんて見てないから大丈夫だよ〜!」というのがある。

「そっか、誰も読んでないから何を書いても大丈夫かー。」と一瞬は書ける気がしてくるのだが、しばらくするとやっぱり書けない。

なぜか。
あなたも私も、心のどこかでは「誰かに読んでほしい」と切に願っているからだ。

それが地球上のたった1人なのか、日本中の人たちなのかはそれぞれ異なるが、私たちは少なくとも誰かしらに読んでもらいたくてネット上で言葉を綴っているのだと思う。

では一体、誰に?

あなたは誰に読んでもらいたいのだろう?
その人にどんなふうに思われたいのだろう。

あなたの読者は一体誰なのだろうか?

なぜあなたが書けないのか

私が書きたいことが分からなくなった、と感じていたとき。

はじめは、「人からどう思われるか」や「誰に向けて書くのか」を意識してしまうから書けないのだと思っていた。

「こんなこと書いたらどう思われるだろう」
「暗いなあ(もっとポジティブなこと書かねば)」
「何のために書いてるんだろう」
「面白くない」
「結論がない(結局何が言いたいんだろ)」
「これってホントに書きたいことだっけ」
「noteを書く目的ってなんだっけ」

こういういろんな考えは確かに私の頭の中にあったのだけれど、根本的な部分で私は間違っていた。

私は他人からの視線を意識して書けないのでは、なかった。
自分自身の視線を意識して書けなかったのだ。

「書けない」「どう書いたら良いのか分からない」という気持ちの裏側にあるのは、自分自身に対する迷いだった。

自分をどう表現したら良いのか、何をどう言葉にしたら良いのか。

もっというなら、このままの自分ではダメだ、という自身の心の中から聞こえる、自分をジャッジするする声だった。

私たちがいちばん恐れているもの

私たちがいつも心の中で恐れているものは、心の中にある「私たち自身の目」だ。

自分が書いたものがつまらないと思うのも、面白いと思うのも、恥ずかしいと思うのも、くだらないと思うのも、間違っていると思うのも、本当はすべて自分自身だ。

それを他人の目だと思っているのは、書くことも人生も同じだ。

自分が考えていること、日々感じていることを真っ直ぐに書きたいと思えば思うほど、怖くなる。井戸の底を覗き込むように、文章を通して恐る恐る自分の心の中を覗き込んで、その浅さを知るのは、誰でも本当は怖いのだ。

人生も同じだ。挑戦して失敗するのが怖い、仕事で成功できないのが怖い、恋愛や人間関係をうまく築けないのが怖い。それを他人からどう見られるかではなく、いちばん恐れているのは自分自身に失望してしまうことだ。

書くことと生きることはきっと同じ怖さを含んでいる。

「相手の気持ちを考えなさい」と言われて育った私たちは、自分のために生きることが下手すぎる。

文章も同じだ。誰かのために、役立つ情報を、勇気が湧いてくる話を、心温まる話を届けようなんて思わなくていい。

ただ自分のために書こう。

あなたのいちばんの読者は

あなたのnoteをいちばん初めに読んでいる読者は、あなた自身だ。

最初にあなたのnoteを読んで、
「面白いなあ」
「つまらないなあ」
「暗いなあ」
「結論がないなあ(結局何が言いたいんだろう)」
「これってホントにこの人が書きたいことなのかなあ」
などと最初に思うのは、他でもないあなた自身なのである。

「どうせ誰にも読まれないから」と思って書くのと、誰かに読んでもらいたいと思って書くのとでは全然違う。

あなたには、あなたといういちばんの読者がいる。
あなたはあなた自身のために書けば良いのだ。
あなたはあなたのために、書くべきなのだ。

 「本当の自分」を探さない

ところで、自分というのは案外たくさんいる。

過去の自分。
今の自分。
明日の自分。
1週間後の自分。
1年後の自分。
10年後の自分。

過去の自分を癒すために書くこともできれば、今の自分を見つめるために書くことも、1年後の自分を応援するために書くこともできる。

仕事を頑張りたい自分。
恋愛をうまくやりたい自分。
目標のために走り続けたい自分。
リラックスしたい自分。
趣味を大切にしたい自分。

どんな自分のために書くこともできる。

ここで1つだけ注意がある。それは、「本当の自分」を探そうとしない、ということ。本当の自分なんて、ないからだ。
言い換えるならば、どれも本当の自分だからだ。
その時その時で、色んな自分があっていい。

「本当の自分」の罠にハマってしまっている人には、処方箋としてこの本をお薦めする。
平野啓一郎著・私とは何か――「個人」から「分人」へ(講談社現代新書)

言葉がついてくるか、自分がついていくか

私は、自分の現在地点を確かめるために書いている。

現在地点を踏み締めて、喜びも、悲しみも、どんな気分の自分も受け入れられるために書いている。

かっこいい自分になろうとしなくていい。むしろかっこ悪い自分でいい。
答えのない問いに無理に答えを出さなくてもいい。分からないなら、「分からない」と言ってもいい。
迷ったり躓いたり遠回りしてもいい。ネガティブもポジティブもどっちもなく、常に揺れ動いてニュートラルに戻ればいい。

だけど、これからも書き続けるために、1つだけルールを決めた。
どんな時も一歩先の未来の自分のために書く、ということだ。

エネルギーに満ちていて、アクセルを踏んでいるときの自分には、同じようにエネルギーに満ちた言葉がついてきていた。
反対にブレーキを踏んでいる自分には、やっぱりエネルギーのない言葉がついてくる。それに気づいたら、言葉で自分をリードする。言葉の後ろを、自分がついていく

それぐらい、言葉には力がある。

「言霊」や「引き寄せの法則」なんてキラキラしたスピリチュアルなものではなく、自分で言葉にしたことを、泥臭く守ろうとして生きるだけ。誠実に生きようと必死に努力する。

最後に

わたしは書けない病を克服して自分のために書く、と決めた。
あなたも今のあなたのままで、自分100%で書いてほしい。
他人のためなんて考えず、自分のためだけに書いてほしい。

それでもやっぱり「書けない」という、自分のためになどと言われるとますます分からなくなってしまうというあなた。

それなら私のために書いてほしい。このnoteを読んでくれたあなたがどんな文章を書いているのかを知りたいから。スキやコメントを残していただけたら、私は必ずあなたのnoteを読みにいきます。

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