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【映画エッセイ】「BLUE GIANT」にみるストーリーテリングの典型的失敗

昨晩、映画「BLUE GIANT」を観た。

あぁ、これはもったいないな、というのが正直な感想。人を不快にさせる全く需要のない文章と思うが、そのわけを書かせてほしい。

この映画は、音楽の良さ、ライブシーンの迫力(特に作画には目を見張るものがある)、ジャズというジャンルの新鮮味、というストロングポイントのおかげで一定の評価を得ている(実際にネットレビューなんかは全然悪いものではない)。だが、その物語性に注視したとき、残念ながら映画でコケる時のパターンを踏襲していると思う。以下、内容を分解してみたい。(部分的にネタバレします)

【注意】
あくまで私の感想に過ぎないが、これからこの映画のウィークポイントを挙げていくことになる。ファンの方は、先を読むのを遠慮いただきたい。また、先にも触れたのであえて言うまでもないが、この映画は、音楽・映像という点では映画アニメ最高峰といってよいクオリティと思う。ストーリーにキズはあろうとも、本作が優れた点をいくつも有していることは繰り返しておきたい。

1.黄金パターンの脱線

過去に以下の記事を書いた。よければざっと流し読みして先に進んでもらいたい。
(贅沢いってごめんなさい(笑))

超要約すれば、映画(特に子ども向けヒーローものや、主人公成長型青春物語には顕著)には、黄金パターンという脚本の典型が存在する。2~3時間という映画の時間的制約に完璧に対応した映画知(造語です)の結晶のようなもので、私は映画を観るとき、基本的にこのパターンを軸に物語をとらえる。

過去に述べた黄金パターンを再掲する。

①物理的、精神的な不在
②旅立ち
③出会い
④出会ったキャラの持つサブストーリーの紹介
⑤不在の深刻化
⑥出会った者の助け
⑦サブストーリーの終結がメインクライマックスに重なる
⑧エンディング(カタルシス)

これにうまく当てはまれば、ストーリーとして大外れはない。むしろ、感覚的には、70~80点は確約されているといってよい。それほどまでに黄金パターンは強力である。

結論から言えば、「BLUE GIANT」は、このパターンを脱線してしまった。自覚的にズラしたのではなく、パターンにのせようとして、失敗している。パターンにのるうえでのいくつかの原則を無視してしまっているのだ。

①1つめの脱線

決定的にストーリーをつまらなくしているのは、「不在」の不一致である。主人公の大は、自らの夢のため、世界一のジャズプレーヤーになるため、東京進出を断行する。「不在」とは、「現在、世界一プレイヤーでないこと≒演奏者としての総合的な未熟さ」である。これが、この映画の冒頭であり、いわゆるパターンでいうところの「旅立ち」にあたる。これは良い。問題は、その後だ。物語は、クライマックスへ向けて”底”を要する。逆境であり、壁であり、ピンチである。その原因は、旅立ちのきっかけとなった不在・欠如感そのものの深刻化でなければならない。これが物語の原理原則である。しかし、この映画での底、ピンチは何かというと、バンドメンバーである雪折の成長鈍化と交通事故である。どちらも主人公に訪れるものではないのだ。実際、映画中、主人公自身に訪れるピンチは一度もない。大のアイデンティティであるテナーサックスの演奏技術が脅かされる場面は一度もないのだ。

さすがにこれでは、ひやひやしない。物語に山も谷もできない。すべて順調であり、大は終始、完全無欠である。

雪折が交通事故という苛烈な運命に翻弄される展開は、はっきりいって無駄な残酷さに感じた。とんとん拍子にうまくいきすぎる主人公とバランスをとるため、それなりに深い”底”が必要なのは理解できる。しかし、そこで躓くのは主人公であるべきであって、雪折ではない。雪折がどれだけ悲惨な目にあおうと、あぁ、かわいそうだな、以外の感想がない。なぜなら、それは、どこまでいっても、物語の構造上、主人公に感情移入している観客の本質的な(「自分自身の」といってもいい)問題となりえないからである。そんなことをするくらいなら、大の演奏に翳りがさし、世界はおろか、東京のジャズプレイヤーの中では、話にならない、といった展開の方がよほどよい。想定された陳腐な”底”となろうが、これであれば本質的な問題となるのであって、観客はきちんと身につまされる。

②2つめの脱線

これは、クライマックスとサブストーリーがハーモナイズしていない、交差しないという問題である。本作のクライマックスといえば、もちろん、最高峰のジャズハウス<SO BLUE>での演奏である。もうすでに1つめの決定的な脱線において、クライマックスで起こるべきカタルシスに翳りが見えるのであるが、それでも、サブストーリーによるブーストがあれば、まだよかったかもしれない。

演奏中、主要キャラ以外のキャラクターが観客席に一同に会する。それは、平でありアキコであり、望月であり、夜逃げの人であり、玉田のファン、である。主人公の大を描写し続けても、その演奏のすごさ、素晴らしさを表現するには、限界がある。(まぁ、この部分の表現が作中一番のストロングポイントなのは間違いないが)黄金パターンによれば、そこで力を発揮するのがサブキャラである。本来、この演奏を聞くことによって、サブキャラのサブストーリーが昇華(解消・完結といってもいい)されなければならない。ところが、昇華されるべきサブストーリーを誰も持っていない。かろうじて、玉田の成長を追いかけるおっさんといったところか。それでは、あまりにも薄いのである。

演奏中、それぞれのサブキャラは順に画面アップに映し出され、彼らが目の前の演奏をどんな風に聞いているのか、いかに感動しているのか、を伝えようとしてくる。が、全く伝わらない。彼らを感情あるキャラとして全く描いてこなかったのに、最後だけ、「ほら、この人たちみんなそれぞれに感動してる!みんなそれぞれのカタルシスを感じている!」などと思え、というのは傲慢であり、怠惰である。それなら、そこまでにしっかりサブストーリーを描かなければならない。それが物語の鉄則だ。アキコくらいにはちゃんとした物語があってほしかった、というのが本音だ。実際に描かれているのは、彼女が昔の古びた写真を見て、なにやら懐かしむシーンだけだ。たったそれだけの持ち時間と説明しかなく、彼女はストーリーを持たせてもらえなかったのである。

少し擁護するが、これは原作の映画化にありがちな問題だろうと思う。明らかに2時間におさまらないボリュームを色々な”大人の事情”で、ぎゅー――ーっと短縮しているのだから無理はない。カットされるのはすべてサブキャラのストーリーである。1作目を作るときから続編を作らせてもらえる確約があるなら、適切なボリューム感で映画化できるのだろうが、今作の収入次第、と言われると、ぎゅっとして、詰めるだけ詰めて原作の山場まで何とか入れるしかないもんね。気の毒な制約だとは思う。(その点、「鬼滅の刃」なんかは、しっかり原作をいくつにも区切っているので、成功しているのかもしれない)

2.ズラしているのか、ズレてしまったのか

もちろん映画の中には、黄金パターンにはまらない傑作もたくさん存在する。けれど、それらに共通しているのは、意図してパターンをズラしている、ということだ。製作者が、「ここズラしたよーん」と自覚している。例えば、先に挙げた記事では「となりのトトロ」をズラしの作品として取り上げた。また、今なお燦然と輝く伝説のタランティーノ映画「パルプ・フィクション」なんてズレこそテーマ、といった具合の映画である。

一方で、「BLUE GIANT」は、残念ながらパターンにのせようとしたけれど、ズレてしまった、作品である。

ここで、また過去記事を引っ張り出すが、千葉雅也の「センスの哲学」では、センスの無自覚をこのように定義している。

なにか完成された、洗練された「作品」があって、それを目標として完璧に模倣しようとする。だが、その模倣が技術的な問題やその他の問題で行き届かずに、模倣が十分なされていない状態、それが「センスの不在」である。この状態に特徴的なのは、模倣対象と自分の作品とのズレが、稚拙さや未熟さのマイナス要素としてしか認識されないことである。90%模倣に成功しても、目立つのは残り10%の不足である。模倣の失敗による減点方式の表現、それが「センスの不在」である。

過去記事:自分なりの「センスの哲学」より引用

ズレてしまったのか、ズラしているのか、これは大きな差である。一方は、不足とみなされ、一方は、特徴や味とよばれる。残念ながら本作は前者である。


3.まとめ

しばしば、原作漫画などが映画化されて、ひどいことになるが、そのメカニズムは上記のようなことである。黄金パターンにのせようとして、脱線してしまった時、物語はもはや収拾がつかない。何事も原則が肝要であり、”大人の事情”などでそれを破ると手痛いしっぺ返しを被ることになる。創造者は、全能ではない。物語の原則を無視することは誰にもできない。構造・パターンというものがいかに優れているかということと同時に、それに素直に従う気持ちや作中のキャラクターへの敬意、といった善性がストーリーテラーには絶対に必要だと再認識した次第である。


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