綱川哲郎|瞑想と対話

元僧侶(ミャンマーの森林僧院で3年間出家修行) 瞑想実践10,000時間以上 「もう…

綱川哲郎|瞑想と対話

元僧侶(ミャンマーの森林僧院で3年間出家修行) 瞑想実践10,000時間以上 「もう迷わない、瞑想はこうやればいい」 瞑想っぽいものではなく、シンプルで基本だけど、 本格的な瞑想を学べる瞑想会(オンライン、対面@東京)、 瞑想講座を開いています

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私の物語り

これは私の物語です。自己探究の歩みをまとめていきます。振り返ってみれば、ずいぶんナイーブな感じもしますが、なるべく正直に書いてみます。この物語りは、「智慧(神秘)の道」ですが、典型的なプロセスのようにも思えます。誰かの参考になれば、幸いです。 目次 一部  境界線  外への旅(ヨーロッパ)  模索  「道」を見つける 二部  善き人を目指して  内なる旅(仏教)  聖と俗を行ったり来たり  放棄と自由への恐れ 三部  救済と自殺未遂  大いに笑う  「空」に翻弄される

    • あとがき 「道の終わりへ(内なる声)」

      自己変容の旅も終わりへ、日本に帰国すること決めたころ、頭の中に「書きなさい」という声がこだまするようになりました。 耳に聞こえるのではなく、思考が静まっているときに、その想いがすーっと入り込んできました。耳を澄ませると、遠くで反響しているような感じです。 なにか不思議な感覚はありましたが、自分の思い込みにすぎないと放っておきました。 しかし、何度も何度も繰り返されました。 そんなあるとき、ふと文章を書き始めました。 その中の一つをここに引用して、「私の物語り」を終わりにし

      • 第四部 四.「出会いと別れ」

        僧院から帰国するように言い渡されましたが、私は抗っていました。 しかし、そんな抵抗も虚しく、完全に降参させられることが起こりました。 あの体験(第四部 二.「母に抱かれて(サマーディ)」)をして、こちらに戻ってきてからは、私にはなにか執着するものが必要でした。そうでなければ、自分を維持できない(受け入れられない)ように感じていたのです。 それに応えるように、一匹の猫との出会いがありました。 私は"彼女(猫)"に愛着を持っていました。そして、"彼女"には私が必要だと思ってい

        • 第四部 三.「生(聖)の葛藤」

          あの体験(第四部 二.「母に抱かれる(サマーディ)」)で、全てが完全にひっくり返ってしまいました。 それまで聖典を学んでいたのに、本当には知らなかったのでした。 しかし、それはまさに書いてある通りでした。 なにかを付け足す必要はないほど、十分に書いてあったのです。 もう真理についてなにも疑問が無くなり、もう聖典も必要ないと感じました。 そして、かつて自分がそうであったように、このことは伝えることができるようなものではないと思いました。 一方で、それがむしろこれからすべき唯

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          第四部 二.「母に抱かれる(サマーディ)」

          それはいつも思いがけないタイミングで起こりました。 「ラマナ・マハルシの対話」を読み終えて、顔を上げたとき、そのときがきました。 世界が遠のき、それまでは遠くに霞んで見えていた実在("それ"、涅槃、真我、神)が前面にはっきりと現れたのです。 それはまさに、ありありと、"それ"だけが見えました。 なにを見ても、どこを見ても、"それ"しか見えませんでした。 思考も静まり、私を失い、なにもかもが"それ"でした。 世界(幻想)と実在(真実)が逆転しました。 そのときの体験は実感

          第四部 二.「母に抱かれる(サマーディ)」

          第四部 一.「ラマナ・マハルシの恩寵」

          少しさかのぼりますが、瞑想を始めて4,5年ほど経ち、長期間のリトリートも心地良く過ごせるようになったころです。 ふと、なにかの存在を感じるようになりました。 そのとき、なぜか直感的に「ラマナ・マハルシがいる」と感じたのです。 実際に目に見えるのではなく、視界の外や死角になったところにいるのを感じます。振り返ったり、探してみましたが見つかりませんでした。 そして、なにか見える形でなにかが現れるのを望むこともありませんでした。 それでも、その存在感は強烈で、それを感じるたびに

          第四部 一.「ラマナ・マハルシの恩寵」

          第三部 四.「霊的な気晴らし」

          これまでブレイクスルーがあると、その直後は認識の転換を色濃く体験しました。しかし、それはあくまでも体験(現象)であって、(この世界と同様に)想念によって形作られたものです。 そして、その後、蓋で抑えられていたもの(潜在的傾向)が解放されて、一気に噴き出してくるという経験をしてきました。 私は、「空」に翻弄され、想念を縛りつけておけるようなものを探しました。 それが、いわゆるスピリチュアルな書物でした。それらは多くの場合、想念(イメージ)の不可思議さ、深淵さ、神秘さが書き記さ

          第三部 四.「霊的な気晴らし」

          第三部 三.「空に翻弄される」

          自己の内に、純粋な"それ"を発見して、大いに笑いました。 そして、笑いが止まったとき、すべてがシーンと静まり返りました。 次に私は椅子から立ち上がりました。 しかし、私はそこを動かないで、立ち上がる様子を眺めていました。 その身体は、次の日課をこなすために歩いていきます。 私はなにもせず、それをただ見ていました。 傘を忘れたことに気がついて、部屋に戻ります。 私には、なんの思いも欲求(衝動)も生じていませんでした。 私は、この身体、この世界から完全に分離して、そこから離れて

          第三部 三.「空に翻弄される」

          第三部 二.「大いに笑う」

          私はこの世界の不完全さを諦めて、完全な"それ"に向かおうとしました。 しかし、"それ"は自己の内にあると多くの聖典で教えています。 もうこの世界には、未練はありませんでした。自分の命を投げ出してでも、なんとかそれに向かいたいと願いました。 この世界から離脱したいという衝動に、後ろから追い立てられるような感覚もありました。 それから、ひたすら一心に"それ"を探求をしました。 食事をしても、食べ物の味も分からないほどでした。もう周囲への情動もほとんどないほど夢中になって、探求し

          第三部 二.「大いに笑う」

          第三部 一.「救済と自殺未遂」

          自己探求の過程で、あるとき突然全く変わってしまうこともあれば、変化の中にあって自分では気づかないうちに大きく変わっていることもありました。それは、周囲との関係の変化や、落ち着いた後に振り返ってみれば分かります。 調和に向かうとき、その道筋は定められているように感じます。しかし、正しい道順はあっても、それは人それぞれで、本人はそれを知ることはできません。 そのため、自分で意図的にバランスを取ろうとするのではなく、信頼して委ねて、目の前にあることを受け入れて進んでいくことが大事

          第三部 一.「救済と自殺未遂」

          第二部 四.「放棄と自由への恐れ」

          瞑想(仏道)修行を通して、感情から解放(浄化)されていくにつれ、長期の瞑想リトリートも困難ではなくなりました。 それまでは、同じ場所で、沈黙して、心を見つめていると、内から湧き上がるさまざまな感覚やそれに伴う感情に翻弄されていたのです。 思えば、これまでもある状況に困難(葛藤)を感じ、必死に耐え、あるとき「もう大丈夫だ」と思うと、状況がパッと改善されるということをよく経験しました。 瞑想を深めていくほどに、様々な洞察や特別感のある体験も起こります。私は力を得るほど、他者は

          第二部 四.「放棄と自由への恐れ」

          第二部 三.「聖と俗を行ったり来たり」

          瞑想で起こったこと、見えたもの、感じたものそれ自体には大きな意味はないと思っています。私はそれなりに多くのことを経験してきました。 瞑想中なにが起こっているのか、そもそも瞑想でなにをしているのか、よく分かりませんでしたし、分かろうともしませんでした。 それでも、確信だけはありました。 師はいませんでした。ただ内的なインスピレーションが、導きでした。 教えられたように禅定(超越的な状態)を目指して集中していたときには、禅病や偏差と呼ばれる体調不良のようなものを経験していました

          第二部 三.「聖と俗を行ったり来たり」

          第二部 二.「内なる旅(仏教)」

          新たな社会生活や出会いが落ち着いてくると、再び探求に強く惹きつけられるようになっていきました。 瞑想を始める前、私は知識への欲求とこだわりが強くありました。この人生は限られているのに、その膨大な知識を学ぶことなんてできないと圧倒されるほどでした。 しかし、瞑想を始めてからは、相変わらず知的探求には向かっていましたが、それほど重要なことには思えなくなりました。 知識として学ぶのではなく、その背後にあるものを見ていくことは、瞑想を通して学んだことです。 そうして、これまで外側

          第二部 二.「内なる旅(仏教)」

          第二部 一.「善き人を目指して」

          瞑想での体験は、私の人生を根底から変えたと言っても過言ではありませんでした。 そこで感情的には大きな動揺もありました。 それまでの人生を振り返って心底惨めな気持ちになったのです。どれだけ自分が他者を傷つけてきたか、自らが獲得してきたと思っていたものは、誰かから奪ってきたのではないかと恐れました。 それで、これからは「善き人になろう」と心に決めたのです。 もちろん良い変化もありました。世界が美しく輝き、自然と溢れて来る感謝をいつも感じて、周囲との関係もはっきりと変化していきま

          第二部 一.「善き人を目指して」

          第一部 四.「道を見つける」

          初めての瞑想リトリートに参加して2日目くらいのとき、光のヴィジョンを見ました。 瞑想を始めるとすぐに身体全体を覆うように感覚が広がっていきました。すると、身体全体がキラキラと輝き始め、次にその光が頭に集まって強烈な輝きを発しました。その光はまるで自分自身であるように感じられました。それが身体から抜け、目の前に出て、しばらくすると蒸発するように消えたのです。 そのとき、なにか決定的な瞬間を感じました。 この経験について、何が起こったのかは分かりませんでしたし、考えることもあり

          第一部 四.「道を見つける」

          第一部 三.「模索」

          外への旅をして、もう制限は無くなったように感じました。人の助けを感じて、穏やかな気持ちにもなりました。前は危うかったのが、大分柔らかくなったと言われるようになりました。 なにをしてもいい、やりたいことをやろう。そして、私はただ自由になることを目指しました。 自由になるためにすることは、制限を作り出している自分を克服することでした。そのために、自分の恐れに立ち向かい、苦手なこと、やりたくないことをあえてやってきました。私にとって、「やりたいことは、やりたくないこと」だったので

          第一部 三.「模索」