第一部 四.「道を見つける」

初めての瞑想リトリートに参加して2日目くらいのとき、光のヴィジョンを見ました。
瞑想を始めるとすぐに身体全体を覆うように感覚が広がっていきました。すると、身体全体がキラキラと輝き始め、次にその光が頭に集まって強烈な輝きを発しました。その光はまるで自分自身であるように感じられました。それが身体から抜け、目の前に出て、しばらくすると蒸発するように消えたのです。
そのとき、なにか決定的な瞬間を感じました。

この経験について、何が起こったのかは分かりませんでしたし、考えることもありませんでした。
それから数日ほど全くと言っていいほど思考が浮かんでこなかったのです。
それは驚きでした。
今まで体験したことのない静寂の中で、自分を失って、明晰さの中に世界の現れだけが輝いていました。

そのときは、単純に自分が無くなったと感じていました。そして、なにかがあるわけでもないのに、ただ確信がありました。
それを「神」と呼んでもいいと思ったほどです。しかし、そういうものでもないとも感じていました。予備知識もなく、なんの手がかりもありませんでしたし、それを見出そうとか、それについて解明しようという気も起こりませんでした。

そして、このとき20歳のころのアートスクールでデッサンを習ったときの言葉にならない衝撃(第一部 一.「境界線」)を思い出したのです。それをより鮮明に、なにかを経験したように感じました。

それから数日過ぎると、今度は圧倒されるほど感情が沸き起こってきました。もう泣かなければどうにもなりませんでした。そうして、その後に喜びに圧倒され、涙を流しました。
瞑想合宿が終わって帰るときには「すべては愛だったんだ」と、また泣いたりました。

私にとって瞑想は簡単でした。教えられなくてもできたほどです。むしろ教えられることが障害にさえなりました。
なぜなら、私はこれまでずっと自由を目指し、自己の制限を克服しようとしていたことが、ここで瞑想に結びついたのです。
ちなみに、ここでの瞑想は技巧的に集中したりイメージするものではなく、自己探究や観照としての瞑想です。

この瞑想合宿を通じて、「世界の中では身体はちっぽけな一物体に過ぎないが、世界と自分(心)は分離しておらず、自分の認識によって成り立っている」と、実感しました。

そして、それらの根底にはなにか言葉にできない、より大いなるものがあることを確信し、それまでのこだわりがスッキリと解消されました。
ヴィーガンもやめ、田舎暮らしをしようとしていたのもやめて、また東京で普通の暮らしをすることにしました。

こうして私は「道」を見出しました。

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