第二部 一.「善き人を目指して」

瞑想での体験は、私の人生を根底から変えたと言っても過言ではありませんでした。
そこで感情的には大きな動揺もありました。
それまでの人生を振り返って心底惨めな気持ちになったのです。どれだけ自分が他者を傷つけてきたか、自らが獲得してきたと思っていたものは、誰かから奪ってきたのではないかと恐れました。
それで、これからは「善き人になろう」と心に決めたのです。

もちろん良い変化もありました。世界が美しく輝き、自然と溢れて来る感謝をいつも感じて、周囲との関係もはっきりと変化していきました。
その変化に両親は驚き、それならと私が参加した瞑想合宿に自発的に参加したほどです。

なにかの転機にはいつも出会いがありました。
それから、ある女性に出会いました。よく見るとその女性は、光り輝いていたのです。その女性の気分や感情などがその光として反映されているようで、それに驚き、そして惹かれました。しかし、二人の間に大きな障害が立ちはだかりました。そこで、もう瞑想どころではなくなるほど、愛着に身を焦がして、大きな葛藤を経験しました。

仲間との出会いは、多くの洞察をもたらしてくれました。
コミュニティに参加し、あるときメンバーの一人が言いました「いくら部分を拡張していっても、全体にはならない」。
それを聞いたとき、あのことかと納得しました。それまで名前をつけることなく、ただ当たり前に認識していたものが、「全体性」とも呼ばれているらしいことを知りました。インスピレーションの源にある、説明できないものに言葉を当てられた経験でした。
しかしそれでも、私にとっては、それは名付けようもなく、「それ」でした。

自己の境界が揺らぐと、他者(世界)とのつながりを実感し、他者(社会)への貢献の欲求が生じることは当然に思えました。
しかし、それでも私にとって、世界とは自己の内にあるものという感覚がありました。そのため、世界平和は内的なものだと信じていました。瞑想などで自分自身に向かうことが、世界のためだと本気で思っていたのです。
それは、あまり他の人には言ってはいけないことのように感じていました。小賢しくも、なぜ人々は自分のことは脇において、世界を良くすることに躍起になっているのかと、不思議に思っていたほどです。
とはいえ、私自身、独りで瞑想することでも、自分のためにやっているという意識もありませんでした。なぜやっているのか、繰り返し内省し続けていましたが、分からないままでした。

一方で、瞑想をしていると、自分がこんなにも怒りを抱えていたのかと驚くほど、内的な衝動に気がつくことがよくありました。その怒り、反発など、個人的感情を解消することが、なによりまずすべきことだと感じていました。

また別の機会に、グループで対話をしていました。そこで、私はなにか発言を求められ、少し考えて、話そうとしました。
話し始める直前に、ちょうど向かいに座っている男性が「うわっ!」と驚きました。そこで、「どうしたんですか?」と尋ねると、彼は「突然、青いオーラがバーッと広がってビックリしてしまったんです」と答えました。
その彼は、サイキックな傾向があって、他人のオーラが見えるらしいのです。いつも見ているわけではないようですが、疲れていたり意識がぼーっとしやすいときは意図せずに見えてしまうこともあり、このときもそうだったようです。
そこで、私はふと自分がさっき何をしていたのか思い返してみました。
それまで当たり前のように「考える」ことをしていると思っていましたが、ついさっき自分がなにをしていたか自覚がなかったのです。
そして、よく思い返してみると、そのときなにも考えておらず、むしろ積極的に頭を空っぽにしていたのです。このときまで全く意識していなかったので、いつからそのようにしてたのか思い出せません。
しかし、それからは自覚的に頭を空っぽにして話すようになりました。

あえて考えることもせず、反応的に話すのでもなく、浮かんでくる言葉やイメージが消えて静まるのを待ってから、話すのです。話すタイミングだけを図って、口から話し始めるまで自分が何を言うのか分からないような感じで話すようになりました。
そうすると、悩みや葛藤が出てきても、考える必要はなくなりました。とはいえ、相変わらず自動的に生じてくる思考には悩まされましたが。
考える必要も、考えをやめる必要もなく、瞑想のようにただそのままにしておけばよくなりました。

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