第二部 二.「内なる旅(仏教)」

新たな社会生活や出会いが落ち着いてくると、再び探求に強く惹きつけられるようになっていきました。

瞑想を始める前、私は知識への欲求とこだわりが強くありました。この人生は限られているのに、その膨大な知識を学ぶことなんてできないと圧倒されるほどでした。
しかし、瞑想を始めてからは、相変わらず知的探求には向かっていましたが、それほど重要なことには思えなくなりました。
知識として学ぶのではなく、その背後にあるものを見ていくことは、瞑想を通して学んだことです。

そうして、これまで外側から見てなんとも掴みどころのない宗教としての仏教を、改めて内側から見てみると、そこには私がそれまでぼんやりと探し求めていたものがあるような気がしました。その神妙さ、奥深さに触れ、これこそ人生をかけて学ぶべきものだという情熱が湧き上がるのを感じました。
私自身は、それまで本気になりたいと思いつつ、どこかやり切れないもどかしさを抱えていたのです。

なんとなく感じてはいるけれど、表現できるほど確かではない、なにか核心のようなものを掴むためには、他のものを混ぜることなく、ひとつのことを体系的に全体を学ぶ必要があると思います。それが私にとっては上座部仏教(原始仏教)だったのでした。
そのことに関して、原始仏典はとても注意深くできており、また多くの先人の体験によって検証されてきたことでもありました。
そうして、点と点が繋がるように全体像がはっきりとしていくことに興奮しました。
しかし、それでも伝統という枠からは外れていきました。
何事も前提を疑って、自分でやってみないと納得ができませんでした。

一方で、伝統的(一般的)に重要視される、涅槃や悟り、カルマ(業)や輪廻などには、それほど興味もありませんでした。
私には関係性や構造、つまり「縁起」が一番の関心でした。

ほどなくして、当時交際し、結婚を約束していた彼女が、仏教国タイに移住することになりました。そうして、私もタイを拠点にして、旅をしながら、宗教や瞑想に没頭していくことになりました。

タイ、スリランカ、ミャンマーなどの東南アジアやインド周辺を旅し、現地の人々の信仰心に心を打たれました。彼らの生活には信仰(ここでは、自我の放棄)が息づいているのです。

あるとき、タイの僧院に滞在していたとき、三人の子供が出家をしました。初めのころ、彼らは外国人の大人たちに恭しく食べ物のお布施をされて、恥ずかしさや落ち着きのなさがありました。しかし、2週間もすると、なんとも堂々と背筋を正し、お布施を受けとるようになり、がらりとその佇まいを変えたのです。
それを見て、私も僧侶になってみようと思うようになりました。

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