第四部 二.「母に抱かれる(サマーディ)」

それはいつも思いがけないタイミングで起こりました。
「ラマナ・マハルシの対話」を読み終えて、顔を上げたとき、そのときがきました。

世界が遠のき、それまでは遠くに霞んで見えていた実在("それ"、涅槃、真我、神)が前面にはっきりと現れたのです。
それはまさに、ありありと、"それ"だけが見えました。
なにを見ても、どこを見ても、"それ"しか見えませんでした。
思考も静まり、私を失い、なにもかもが"それ"でした。

世界(幻想)と実在(真実)が逆転しました。

そのときの体験は実感がありません。
なにかをしようという衝動も、なにかをしているという自覚もありませんでした。
目に映っているものも見ていませんでした。
耳に届くものも聞いていませんでした。
あらゆるものの区別がなくなり、気づきさえなくなったようでした。

以前に似た体験はありました(第三部 三.「空に翻弄される」)。しかしあのときはそれを眺めている実感(自己)は確かにありました。
しかし、このときの体験は実感もなかったのです。
それまで、なにもしていても瞑想のように気づきを保っていました。
しかし、それが終わるまで、なにが起こっているのかの認識も無くなっていたのです。

あのとき、「終わった」という印象があったように思います。

それでも、いつも通りにきちんと日課をこなしていたようでした。僧院に滞在していたため、人と会話はしませんでしたが、食事もしていたでしょう。
そして、いつも通り瞑想もしました。そのときのことはなんとなく思い出せます。

そのときに限りませんが、座って目を瞑ると、どこにいるのか、どんな姿勢でいるのか、何時なのかは分からなくなっていました。
さらに深く入っているときは、何分、何時間経ったのか、外が明るいのか暗いのか、朝なのか夕方なのか分からなくなります。
いつも通りのスケジュールであれば、4時間ほど座っていたでしょう。しかし、時間は全くありませんでした。
身体の感覚も無く、エネルギーはハートに沈み、ただ意識が広がっていました。

サマーディとは「私はある」という存在の感覚であると言われています。
それは、文字通りに私があるのではなく、私と呼べるものもありませんが、意識(認識の基盤)だけがあるので、それを原初の「私」と呼んでいるようです。

このとき、まだ完全に安定したサマーディではなかったのかもしれません。まだ残っているものがあったからです。

瞑想してすぐは微かな思考(印象)が残っていました。それも、すぐに始まったところから崩壊していって、崩壊が生成を追い越して、もう生じなくなるのを見届けました。
あとは、ごく微かな全体的な振動(感じ)と、見えない光(感じ)、そしておそらく短く途切れ途切れに呼吸が生じていました。

起きているのか寝ているのか、あるのかないのかは分からないほど、意識は微かでした。
そこに、ポツリと印象の波が生じます。そして、それにぶつかるとその世界に飛ばされました。あるときは、小動物の視点で森を走っていました。別のときは、広場を歩いていて、また別のときは椅子に座って読書していました。まるで夢の中に入ったように、世界がまるごと現れては消えていきます。
そうして、最後には意識のみが残ります。

もちろん居眠りしていたわけではありません。瞑想中に居眠りすると、頭がカクンと落ちるのです。
それでも、起きたまま寝ていたとも言えるかもしれません。

そして、その日を終え、眠りにつきました。
しかし、眠ったことには気がつきませんでした。
次の日、目を覚ました。
しかし、目覚めたことにも気がつきませんでした。

早朝に椅子に座っていました。
なにもかもが静まり返っていました。
そして、心臓のトクンという鼓動を感じました。
その途端、バーっと身体意識が戻ってきて、今ここにいるという実感とともに、「生まれた(始まった)」という印象が起こったのです。
そして、なにがなんだか分からないまま、声を上げて泣きました。

泣きながら、これまで歩いた道全体を見通す智慧と、この先の予感を感じました。そうして、一日ほどの短いサマーディを終えました。

この体験は比喩的な説明になりますが、この体験をきちんと説明しようとあのときの感覚に意識を向けると、思考が止まり、ただ涙が溢れてきます。
なにが起こっていたのか本当には言う(考える)ことができないのです。

サマーディとは、母親に抱かれた赤ん坊に例えられることがあります。
赤ん坊(私)はおっぱいを飲み、満足してウトウト居眠りをしています。赤ん坊に必要なことは、母親(神)が全て行ってくれます。母親にどこかに連れて行かれても、赤ん坊はそれに気づくことはありません。

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ここで言うサマーディとは、技巧的な超越状態(努力のあるサマーディ)ではありません。なにも意図せず、努力なしに、自然にそうなったのです。
そもそも私はそのように修行をしていないので、超越状態(禅定)には入れません。

私がいなくても、すべてはあるがままにあります。
サマーディに入っていても、全てはごく自然に動いていて、誰にも気づかれることはないでしょう。

思い返せば、前兆はありました。ときどきサマーパティ(主体と客体の合一)に入るようになっていたのです。
一瞥のような体験をすると、その直後は自我(分離)が静まっているため、簡単にサマーパティに入れるようになります。しかし、その体験による変化が落ち着いてくる(自我が復活する)と、それに入れなくなっていきます。その後、しばらくして、またサマーパティに入るようになってくると、一瞥後の感覚も戻ってきて、次の体験(自我の死)へと進んでいったように思います。

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