第三部 三.「空に翻弄される」

自己の内に、純粋な"それ"を発見して、大いに笑いました。
そして、笑いが止まったとき、すべてがシーンと静まり返りました。

次に私は椅子から立ち上がりました。
しかし、私はそこを動かないで、立ち上がる様子を眺めていました。
その身体は、次の日課をこなすために歩いていきます。
私はなにもせず、それをただ見ていました。
傘を忘れたことに気がついて、部屋に戻ります。
私には、なんの思いも欲求(衝動)も生じていませんでした。
私は、この身体、この世界から完全に分離して、そこから離れてただ眺めているようになりました。
食事をしているのも、この身体であって、それを楽しんでいるのをこちらから眺めているだけでした。なんの味もせず、感覚(情動)もなく、透明な広がりとして、不動でした。

しばらくして、ふと恐怖が忍び込んできました。
なにも感じない透明な牢獄の中に閉じ込められたように感じ始めたのです。その恐怖は、圧倒的でした。
私はなんでもいいから、とにかく体の中に戻りたいと強く願いました。その瞬間、身体の感覚が戻ってきて、ようやく実感を取り戻しました。

しかし、それはときどき不意に起こりそうになります。
私は、そのとき迫ってくる虚無感に身動きが取れずに、大粒の涙を流して通り過ぎるのを耐えるしかありませんでした。
ふと、すべては自分で作り出した自作自演であるということが実感があるほどの確かさで迫ってくることもあり、絶望感で打ちひしがれました。

また一方で、身体の感覚や意識が遠のいて、恍惚感がやってくるようにもなりました。すべてが美しく輝きを増して、眩く消え去って、我を忘れて至福に没入しました。

次第に、それがどのように起こるのかが分かってきました。それは想念によって起こっているのです。空っぽの「空」と、満ち溢れる「空」に意識が向かうとき、それぞれにその想念が現象化されるのです。
他の想念(思考)が静まっていると、特定の想念が際立ち、力を増すのでした。

あまりにも圧倒的な恍惚感と虚無感が交互に襲ってくることに堪えきれず、私はなにかしがみつくものを求めました。

思い返せば、このとき"それ"として見ていたものは「心(知覚)」でした。対象があるとき、つまり見ることのできる(照らされるものがある)光とは、それがどれだけ崇高に感じても「無知の心」です。対象ではない、透明で、なんの性質も帯びていない"それ"は「純粋な心」でした。
しかし、それは、本来の"それ"、分離のない純粋な意識とは異なるものだったのです。

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